悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

5.13先

まだ自分にはゲームの事でソワソワする気持ちがあるんだなとゼルダの新作のプレイ配信見てそう思う。なんとも私は他人に影響されやすいのだと改めて思う。きょうだいからも昔から本当によく言われて、昔はまだ元気のあったころ他人のTwitter見たらすぐ影響されてああでもないこうでもないとわめく私がいた。

でもじゃあ今ゲーム買ったところでちゃんとプレイできるかは別のお話である。機は慌てず騒がず待っていた方がよいのだというおみくじの内容を思い出す。なのでまだ当分しばらくは様子見になるだろうな。

しかしこの影響されやすいっていうのは私は案外寂しいと感じてるというか、人との繋がりを根本的な部分では求めているのかなと思ってくる。他人は他人だ自分は自分だと考えないと精神的にキツい時はあるけどその一方でどこかで同じ流れに乗って共有したいという何か。一種の現代病のような・・・いや元を辿れば流行を取り入れるっていう事とあまり変わらないか。

自分の中にこうしていこうとかこうありたいって明確なビジョンのようなものがないからなのかもしれない?お祭りには便乗したい?っていうミーハーさもあるか。

同じ楽しさを共有したいのか、得た知識で共感したいのか。ただその先にアウトプットがなければどうにもならないような気もしてくる。

常に情報を追い求めてきたあの時の熱意というか執念というか、今振り替えるとあの時は尋常じゃなかったように思う。140字の敷き詰められた文字列と画像に一喜一憂、矢継ぎ早に移ろいでいた。交流とかはしてないから本当にROM専のだけだったのだけども楽しいこともあればほとんど苦くもあってそれこそちょっとした文字を見つめては憂鬱にもなっていたし、逆に負けず嫌いに火がつく(空回りに終わるが)ような事もありなんていうかストレスではあるけどそれが新鮮な刺激としてなる事もあった、ただ本当に今の私からするとあの頃は自分でも驚異で何であんな耐えられていたのか楽しめていたのかと不思議に思う。

それは見えない可能性をどこかで信じていたからなのかもしれない根拠のない自信とかいざとなったらやれるんだというのをずっと繰り返して結局何もやらずにタイムリミット(だと思っている)時が来てしまった。いつかやろうという先延ばしは今やっておかないと何も残らないって、もちろん機を熟してとかはその人それぞれであるけど自分の場合はただただ上からふんぞり返ってただけの何もしない意気地なしなだけだった。だから手元に何も残らなくて今になって焦って慌ててるけどほぼ希望がないからそれをわかって不調になったようなもので、一応私の中で弁論みたいなのはあるけど外から眺めた時に私が何もしようとして来なかったのも事実で。

またゲームの話から嫌な方向になってしまったけれど・・・

でもそこに共通しているのは友人とか知人とか身内じゃない他者がいないといい状況ではあってなんていうのか閉鎖的っていうか私は観客であり続けて、その感想を他者と分かち合うとかなかったなあ・・・という事。今でこそこうやってブログが手放せないなとか思ってるけど当時はこういうのも何か抵抗があった。やるならこんな理想像的なのがあって~と実際にやってもないのに高望みしすぎていたんだよなあ・・・。

 

YouTubeでちらっと見かけた大阪でのゼルダ現象という文字。(中は見ていない)何かゼルダシリーズがすごい遠い所に行ったなあ・・・とか思ってしまった。シリーズ全作品プレイしてない私が言うのも何だけど現象と名が付くほどなのか・・・っていう寂しさがある。外国に熱狂的なファンが多いっていうのはそうだと思っていたけれど・・・何だかなあ・・・。こう、私が古くてめんどくさいやつなのでお祭り騒ぎで掻き回されるのもうーんとなってしまう感じがある。スマブラSPの時にもそう思ったかもなあ・・・なんなんだろうなこの何ともいえない感じ・・・。凄いから、とかじゃなくてもっと何か・・・。

救いは配信などでの知らない人とかあまり興味ない感じの人の朗らかな雰囲気のほのぼのコメントだったりするので自分は年だけ取ったなあって思う・・・。これじゃあ古の亡霊・・・

今日はまた二記事書いてしまいたい感覚