悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

離れる、待つ、不安

今の不安を書き出してみる。

別れが伴う時にそれを待っているのは辛いなと思った。だったら自分から離れていった方が気は楽だなと思う。家の状況がまた変わるかもしれない。家族が長年家には無関係だった人事異動・転勤という概念があるのとわりと遠いところに飛ばされる可能性もあるらしく、それで状況が変わりそうなのだ。ただでさえ家は経済的にも健康的にも微妙な状況だからそういうごちゃごちゃした事が起きるのは私の精神的にもイヤだなーと思うのだけどこればかりはどうしようもない。しかし冷静に考えるとその出来事一つは本来は本人だけのもので家がしゃしゃり出るものではないのだ。なので私がどうしよう、どうしようと焦る必要はどこにある?それは頼りすぎていたのではないか?というのが正しかったりするだろう。

だけど状況が変わるのは事実であって例え異動がなくともいつかは起こりえる事である、じゃあ来るべきその時はどうするのかを想像したときやっぱり私としては不安になる。何というか2つ想像が出てきて別れを待つ側ってやっぱりイヤだなと思ったのと、逆に私の方が出ていく事の方が気が楽になるなと思った。私はずっとこの場所に留まる事を前提にしてイヤだなあと考えてる訳だけど別に留まらなければならないルールはないのだ。だから逆に自分が(も)出て行くのだと考えた場合、気持ちが楽になってくるのは何故なのだろう不思議だなと思う。もちろんこれは机上の空論でしかなくて実行に移せる現実力みたいなのは全くないけれどこの生活がまた変わるのかと不安と否定に思ったとき、いや待て自分がどこか別の場所に出て行くことも可能なのだと思うと「それはそうだ」と合点がいった。今の場所に縛られるルールなどもない、実は今から故郷を離れ別の地で暮らすという選択肢もなくはないのだ。

・・・・・・というのを考えて一旦落ち着くのだけど、やっぱり現実的でない理想論すぎて(いやいやでも・・・)とすぐに否定的になってしまう。

若い頃ならどこに行こうか?なんて望めばどこにでも行けるのだという万全感に溢れていた。それは自分が選択しなかっただけなのかもともとその気質がないのか両方かも知れないけどそのどこでも行けるよ!を感じなくなってしまった。枯れたというか何というか。病のせいかそれでなくとも年のせいもあるのだろうけど、展望とか出来事楽しむという事がなくなってきた。来る出来事は何らかしら自分にとってイヤな方面のものしかない、とか思って来たりして。まあこれも喉元すぎれば・・・のように慣れてくればどういう事もないのだろうけれど・・・。だが状況は悪いままで前のように未来があったり安定性があるわけでもないからこれから起こる事はほとんどがネガティブな方面に映ってしまう。

 

本当に自分が逆に道外のどこか行ってきます!ってした方が健康的だなあと思ったし気が楽かもしれない(”気が楽”って今の出来事と比較した上での一時的なものかもしれないけど)なんていうか本当に健康で若いときに色々な体験や経験を積んでおけば後に来る一つ一つに戸惑いを感じずに済んだのだろうか。場所と言ったけど場所は県外(道外)の方がよくてなんていうか同じエリア内の遠くっていうのが何か個人的感覚として外より遠く感じる気がして怖い。これはただの傲慢かもしれないけど・・・。

あるいは待つ事がもう嫌になってるのかもしれないでも現実には待つ事しか出来ない・・・。でもそれを打破しないとというジレンマ。物事には時間をかけないと駄目なものと速攻できるものとがある・・・気がするようになったけど、その向き合い方自体はこちらが鍛えなければ変わらないのでこれはどうしようもないのかなあ・・・。

 

これじゃあ自分がそれを見るのが嫌だからその場から逃げる、嫌なことから逃げるみたいな感じ方だけど、わりと私の今までを振り返るとこういう事してきてたなあと思った。あと逆に自分が去ることで待つ人が出るのでは?っていうのは逆に私は今の場所だけに長居しすぎだと思っている・・・。新しいとか別の拠点を作る労力は計り知れないけど、そういう事もしていかなければ一本道がどん詰まるだけで・・でもすぐに出来るかと言えばそうでもなく・・・途方。