先日思わぬ来客があって、久々に少し会話した。思ったより元気そうだと言われることがあった。
見かけには元気そうだと思われることが多いのだけども、全然元気でもないしその元気を維持することは非常に困難(その日その日で上下幅がある)なのでその時元気に見えて実際そこまで体調悪くなかった日だったとしても、次の日にもそれが続くなんてことはなくなった。
これは非常に勝手ながら、後に上げるかもしれない文では私は全く真逆の事を思ったりするものだが、とどのつまりは「私から見たら相手は元気」であるけれど「相手方から私の印象を見たときに元気だ」と思われることは心外である、という傲慢な気持ちそのものでしかないけれど。
私の元気だとか平常であるというその感覚を自分の意思でコントロールすることは難しいという不安さから来ているもので、これは気分一つでガラッと変わるものでもなく、考えないようにとか思わないようにと張り詰めて頑張って耐えるものでもないからだ。
一つの結果辿り着くのには複数のルートがある、ということは逆にどのルートを通っても一つの場所に辿り着いてしまうということだ。
考えなくても考えていても、何かの拍子にフラグが立つことだってある。全てはゲームオーバーとまでは行かないけれどその結果に集約される条件やルートは無限にあって、それなら比較的そうならないような選択肢を取らざるを得ない。処世術のようなものでもある。
それで私は逆にはてなのデイリートピックに上がっているような人々には「少なくとも元気な人がいっぱいで羨ましいな」とは思うのだけども、自分が元気だと思われる事には若干腹が立つ。
お風呂もシャワーも殆どろくに入れることもなければ食べる事も時折出来なくなるような自分が元気である事なんてないだろう・・・?
遠方への買い物たって、いきなりハードルが高すぎる。
0か100しかないのか?10を飛び越えて90になるなんてことないだろうと思うのだけども、こういうのはどうもロクデナシの父親の影響もありそうだ。
父親がそういういきなりグラデーションを見せないから誤解されている。というよりロクデナシのは躁という病状態で特異な例なのだけれども如何せんその10だとか30、50だとかのグラデーションを見せずに突然100(そして0に戻る)になるから精神的な病が誤解されている感覚はある。
0状態である私がいきなり段階飛び越えて100になってどこにでも行けたりする訳ないだろ、と思う。だから話しを振られてもそれがあまりにも無責任に映る。いくら何でも、無理だろそれは。
自分で限界を作っていては今後どこにも行けないし、よくなる方向とは反対に向かって行っているんじゃないかと思わなくもないけれど・・・。
それでもその提案は突飛だし、今までの現状を踏まえた上で出てくる言葉としては超状態であるから、全く当てずっぽうで言ってるだけにしか聞こえないし、無理解があるとも思うのだ。
つまり行き場のないフラストレーションが溜まっていく一方で、部屋の中で暴れ散らかすだけの暴君でしかないのだけれども、身体と精神を切り離せる術でもない限りはどうしようもない事だと思ってしまう。
そうしたいけれどそうできない、食べたいけれど食べられない、のようなストッパーのようなものが無意識的に働いて身体機能をコントロールするのだ。主に誤った危機意識からの反応なのだけれども・・・これは根性論だとか精神力とかだけでは太刀打ちできない。
結局自分が一番元気という状態から遠ざかっているか遠ざけているのではとも思うけれどもやっぱりこれもどうしようもないし自分の力だけでは及ばないや・・・。
昨日が良かったからといって今日も良いわけではない、明日が悪いわけでもない事もまた然り。二歩進んで三歩下がる、浮き沈みが激しい。