いつもなら何ともないことでも急に不安になる時がある。正に現在私が患っている不調もそういうものだ。
何ともないように見えても急に突然にそうなる時がやってくる、その予測不可能で不敵な状態を私は極端に恐れるようになった。これは理性だとか物事の考え方の転換とかそういう自分の意志で簡単に変えられる事ではない、というよりその意志が働く前に身体自体が先に不調の気配を感じとるので、意志よりも身体の反応の方が早いから私がどれだけ宥めようと思っても返ってそれが逆効果にもなる。
前は大丈夫だったから今回も大丈夫だと思えなくなった。その都度、自分が試されるような感覚。だから外に出る事という行動一つにも判定が下される。
前は行けた。だから今は何?と成功体験も何も効果がない、状況はその度に変化する。前行った時は道路工事していなかった道が今は道路工事で通行止めになっていたら、私は前と違うと不安になる。それだけの事が恐ろしいのだ。
そうしたらまたその出来事が起きてしまうのではないかと、その道自体を避けてしまいたくなる。あるいは外そのものがそういった未知の出来事にまみれているなら外出自体を避けてしまう選択を取ってしまうのだ。
たったそれだけの小さな事なのにも関わらず、不確定でランダムな要素に堪えられなくなってしまっている。もし~が起きたら、とか取り留めのないネガティブな思考の波にのまれるのだ。
嫌なこと探しではないが、嫌なことはいくらでも転がっているのに楽しいことは頑張って探して見つけないといけない。楽しい事を自発的に探し感じることに疲れてしまう。外は特にそうだ。わからないことだらけで、何が起こるのかわからないから怖い。以前は起こる事一つ一つにもそんなに大げさに思わなかったのにという自分の中のギャップにも気持ちが追いついていない。
一人でヨットで世界一周とか歩いて一周とかソロ登山家とかそういった人たちを改めて一人で怖くないのかと思う。昔はこういった事にあまりどうしてとか何故一人でも平気なのか?とか思わなかったけれど、心身の不調になってからはこういった人たちがどうして一人でも大丈夫なのだろう、と思う時がある。
もちろん厳密に一人ではなくて連絡を取り合える仲間とかがいるのだろうけれど実際に旅をする時は一人だろうから、そういう時はどうした心持ちでいるのだろうと気になる。
昔、国語の教科書に載ってた文に主に欧米の人が一人で世界一周などを成し遂げる事が多いのは孤独になれているからだという評論文があったけれど、本当にそうなのだろうか。
彼らは(無神論者であっても?)キリスト教の思考が教えに刻まれていて個人が神と契約するという上で、神が見ていてくれているから自分は一人ではないという意識を保てられるとか書いてあったけれど・・・。
たしかによく「神は我々を見放さなかった」なんていう言い回しもあるし、英語ではくしゃみをゴッドブレスとか言うみたいだし・・・。「ジーザス!」なんて言う嘆き方もあったりするか・・・。
・・・今はどうかわからないけれど・・・。
でも例え神様が見ていてくれるとしても一人で大丈夫だとは思えなくなったりしないのだろうか、突然の予想外の出来事に出くわしたりしたら・・・とか。
そういう場面になるとやっぱり頼れるのは自分、みたいに最終的に自分への信頼が出てくるんじゃないか?そもそも神がついていてくれるから、と思えるのだって自分にそういう自信がついているからだよなぁ・・・。
私が不安になるのは自分に対して絶対大丈夫という自信がないからだ、主にポジティブな方向に、だと。
嫌な方向になる事にはなぜか自信があるのだけど・・・。
平気だった事も次の日には平気じゃなかったりするし、でもその逆の「ダメだった事が平気になった」は起こりにくいというか・・・試した訳じゃないから何とも言えないけれど。
楽しみも苦しみも厄介なんだなぁ・・・
でも一昨日のニンダイは楽しかったから、何だろうな。その時その時で生きてるだけになってるのか、でも悪い事とか嫌な事は長引いたりするので何だかなあ。自分でもコロコロ変わりすぎなような気もするけれど・・・。でも確かに変わらない信じるものがあることが安定に繋がるのはそうか。でも変わらない信じるもの自体を現在に探すのは難しいなぁ・・・。移ろいやすいこの中では。
追記
今日朝からスマホのchromeでTwitchが見れなくなって焦って困ったのもあって色々と落ち着かなくなった。加えて父親が通院の日でかつ珍しく遠出してくると連絡があって一人になる時間が増えるのが堪えたのか、すごく落ち着かない。安定剤の飲む量が増えた。(減らされたのに・・・)
ツイッチの方はブラウザー更新でどうにか解決できたけれど、久々の落ち着かなさ。小さな滞りが積もるとやっぱり身体にきいてくる・・・。