悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

葦にしがみついても

十年以上も前の写真を見て昔は意外と撮っていたと思いつつ、眺めていると情緒が安定しなくなる。具体的には苦しくなってしまうのだがこれは記憶や思い出に押しつぶされそうな所以なのか。

明日は母が藤井風さんのLIVE遠征なのでTOKYO に行く。何か三十年ぶりぐらいらしい、LIVEの開催地は埼玉だけども・・・。その不安もあってか、まあ私は落ち着かなさがある。前回の例があるとはいえ緊張するものは緊張する。

それで私が先にも後にもはっきり記憶に残る最後に行った何十年前の東京の写真をみていたらなんだか寂しくなったというかツラくなった。思い出いっぱい輝いていてあの頃は良かった・・・っていうのもあるけど主成分ではないと思う、何だろう何かとてもとても遠い記憶の中に望郷を見るような届かないものを見つめているような死人への未練があるような、なんかこの虚しさは何なのだろうと圧倒的に押し寄せる虚無感。私にとっては記憶がまだ新しい気がしている。これは年を取ると同じ話を繰り返し気味になる事にも似ている気がして既に勝手が違うのに武勇伝のように未だに語っている、過去という檻に捕らわれた末路のようだ。

でももし体調が安定したらそのうち載せてみたいとは思う。十何年前の写真も。(何分古いデジタルカメラのデータなので・・・)

何があるのかわからないけれど幻想郷なのか桃源郷なのかそこに行けば何かがあると天竺探しに行くみたいな感覚。所謂たびたび起こる此処ではないどこかへと・・・と言った逃避願望。

(何か先週はゴダイゴの『ガンダーラ』をラジオでわりと聴いた気がする)

たぶん住むという観点からしてみればそこにあるのは日常の延長線なわけで実は今と何にも代わらなかったりもするのだろう。結局は自分本体が何かを持つとかしていないと、どこに行っても自分はずっと付きまとうのだから・・・。じゃあ結局どうすればこの虚しさや苦しいから逃れられるのだろう?と言われてもよくわからないし難しい・・・。

理想像や願望とかけ離れすぎた自分をどう見つめ直して地に足を着けて生きられるようにするのか・・・?結局はなりたいよりも出来ることの方が現実的に重要なのかもしれない。

夢のまた夢。