悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

懺悔三

私が購読させて頂いているブロガーの方々も素晴らしい方々だ。けれどそこにあるのはトップの記事たちへのような無闇な羨望ではなく癒やしであったり共感や応援したくなったり面白いと思う楽しさや未知の発見、嬉しさがある。そしてそれらが癒やしになる。(いやピックアップ記事の中にも癒やし成分ある時はあるけれども)

昨日の荒んだ気持ちから、たぶん最近のはてなトップで日替わりでピックアップされる記事の方たちがとんでもない人たちで溢れているのだと思った。私にとってそれらは刺激的で、対化された時に自分の置かれた惨めさとがはっきりとわかる感じ。だから荒んだ時の心に刺さってしまったのだろう。だからトップにピックアップされた記事を書かれたブロガーの方には本当に申し訳ない、ほとんど私の個人的な妬みや僻みのとばっちりである・・・。

 

以前の自分は癒やしや共感というものを求めて来なかったように思う、いつも自分より高いものや違うものを見ていてそこに追いつくようにと意識だけは高く保とうとしていた。いつも自分に足りないものを意識してでもそれを補うような具体的な事はして来なかった。意識だけが空転していた。だからいつも実力がないのに意思だけはご立派な事だった。(特にTwitterなどの瞬発的なSNSは自分を高ぶらせるものだった)

そうやって来てでもいざその目指すものが消え手に入れられないとわかった時、私は混乱した。何もかもが刺激になる、どうすることも出来ないのに情報の波がああしろこうしろと自分を責め立てに来られているような気がした。

そんな何もかもが嫌な刺激になるときに「自分の好きなもの、楽なものだけ見ていてもいいじゃない」と思ったのはこのブログを書き始めてからだったと思う。

今まで私は無理して自分にとっての刺激になるものなどと意図的に対峙してきたのだろうかと思って、その情報を断つと最初は慣れなかった(気になった)が次第に見ないことが心地よくなった。そうして今は自分の見たいものを見るようにしたら快適になった。たまに比較して荒んでしまう事もあるけれど、今までのような全方位が刺激的というのと違う。

のんびりとした楽しさゆっくりとした嬉しさ、わかります・・・という共感に美味しそうという気持ち。今まで私はこういう事を遠ざけていたのだなあという事に気付いた。いつもfightingポーズ取ってたら疲れるのは当たり前だった。

 

突然だが3という数字はわりと好きだ。実際にお店などに行くと席の不便とかシステム的不具合はあるし不安定な数字とかと思うかもしれないけど不安定なのはそれが2:1の構図になっているからでないかと思う。そうじゃなくてそれぞれが独立した1:1:1なら安定してるように思ってしまう。三人寄らば文殊の知恵とか東方三賢者とか三位一体とか三本の矢とか三顧の礼とか3にまつわる知恵的な事柄は多いように思って、3という感覚が個人的に好意がある。それと個人的なキーワードが3になると書いてあってから3という数字を意識するようになった。

なのでスターをつける時はなるべく3つを心がけている・・・が、いきなり通りすがりの某がスター欄を埋め尽くすのは無礼かと思って2や1で止まっているパターンもある。ごめんなさい。