悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

自己弁明

そういえば自分はここまでワクチンを打っていない事に気付く。ノーワク。特にポリシーがあるわけではない。打てるなら打ちたいと思う。若干副反応が怖いけど、家族周りは特に副反応が強く出てる訳でもないのでそんなに反応は心配しなくとも良さそう。家族内で私だけノーワクである。

私の不調というか病は外に出る事が出来ない、恐らく乗り物などは長時間乗ってられないしバスや電車などは逃げ場がないと感じると途端に駄目になる。車ならと思うが車も少しだけ、通院という用事があるから乗れてるのが現状だろう。

買い物ももちろん駄目で、私が買い物に行くという用事はほとんどないのだけども他人の目線、社会の目などに晒されると意識してしまい発作が起きやすくなる。ましてや疫病下において具合の悪いというのは余計に目立つものだ。

この前も一年以上ぶりにスーパーの中に入って売り場を見て回ったけれど、緊張感と同調するような最初の好奇心や目新しさといった新鮮さのある感覚はわりとすぐなくなる。というか店の奥の方、出入り口が遠くなると逃げ場がないと感じそうになる。そう思ってしまうと焦るのでなるべく考えないように冷静にしなければならないのだけど、その焦りを拭う為にさらに焦る事になるのでその瞬間の自分を意識するともうまずいヤバいとなる。「自分が焦ってる事がわかると余計に焦ってしまう」というアレである。

その為なのでワクチン打つどころかそもそも会場に辿り着けないのである。「(苦しくなったらどうしよう・・・)」という不安は私の前にずーっと佇んでいるから。

また、外に出れば「(苦しくならないようにしなければ・・・)」という枷が自分に加わってしまう。普通の健康な人のように振る舞わなければという枷。気が張り緊張する。そして今はそれが出来ないから外出る前から勝負は決まっている・・・。

 

医者には少しずつでも外に出る練習をと言われているから、この病は苦しくなってもいいから外に出る事が必要でその部分を意識しなければならないのだろう。けれど時代は疫病下にあり他者は各々が流行り病に怯えている。私が流行り病でなくとも外で不調をきたせば誰でなくとも他人の社会の目に押しつぶされそうになる。

その目がとても厄介で疫病の蔓延の中で常に誰かを見張るようにして異分子を検知する為にあるように見え、思えた。

恐ろしさの正体は何か、と思う。それは特に誰かのせいでもないのだが、こういう時だいたい昔の心理学では他者に投影した自己がその正体であると全ての原因は自分にあると言われがちだが、私は自分の意識のせいにしても結局それが原因だからと知ったところでどう対処すればいいのかがわからない。

結局自分でも考えないようにしたいと思っても勝手に浮かんで来るものを自分の力で制御できるならとっくにそう出来ているはずである。でもこれは半ば私の意識とは無関係に起きるものでもあって、大げさに言えばたったちょっとつま先の出来事や一粒の歪みの違和感に生じてくる事でもあるからだ。

弁明と自己弁護になるけれど、自分自身の力だけでは何も出来ない。私が私を信じる事は出来ない。例えギリギリであった状態だとしても頼りになる私はもういない。以前の何かによって何でか無事に保たれていた自分はもう消えたようだ。

 

今日は朝方は雨風強く冷え込んだ。風の音と雨が窓にあたるバラバラとした音が大きい。後で窓の外を見ると車のフロントガラスの下に雪がついていた。聞くと雨ではなく霰が降っていたらしい。

そんな日の話。