悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

黒いキャップによる白

やっぱり世の中出来ないことは出来ないといったい方がいいな~と思った。社会人経験の全くない井の中の蛙な私がほざける立場ではないけれど・・・。それでも周りを見てると一度だけでも出来るといってしまうとその後もズルズルと同じ内容で続けられてしまったり融通が利く人なんだと思われてアレもコレもと積み重ねられたりしてしまう。

そうなると本人の本当の状態や状況に関わらずたった一時の一度の応えだけで”これから”も決まっていってしまったりしてしまうのは色々と不都合に見える。

 

本音を言えば周り巡って直接でないにしろ私にも影響がない訳でもなくなるし・・・。ただでさえ家自体が劣悪な状況にあるのにこれ以上また誰かが精神を傷めたり通院するような目になるのはご免なのだ。私も自分勝手だから今以上に家自体が劣悪な環境に置かれるのだけは避けたい、というか見たくない。直視したくないのだ。

だけどもどういう訳かそういう状況に遭いやすいのは呪いなのだろうか、家系の。

 

出来ないことははっきり出来ないと言った方が良いのだけど、それも通用するような場所はきっとまだまだ少ないのだろう。でも大昔から続く体育会系じゃあるまいに「出来ない事でも出来ると言え」だとか「この状態を覚えておけよ」とかそういう脅しめいた言葉を使う場所は今時なんとも時代錯誤にも思えるが、未だそういった旧体制に甘んじている場所はまだまだ少なくはない。

それでも物理的に不可能なものは不可能である。例えばその一つに「大きな声で返事しろ」だとか「はっきりとよくわかる声で」と言うような言い方があるが、あれも身体的構造的に出来ないことだってあるのではないかと思う。声質だってそうだ、生まれ持った骨格や声帯で決まるのだから声が通らないことは千差万別な状態にあると思うし、大きな声だって声を出すには体力やある程度の筋肉が必要であるのだから「声が出てない」だとかいう指摘は身体的ハラスメントにもあたるんじゃないか、と個人的には思う。

自分も昔そういうような事を言われたことはあるけれど、出ないものは出ない。しかもそう言って来る人たちはなぜか「わざと小さな声を出してるんだろ」と決めつけてかかってくるから厄介だし求める大きさの声も怒鳴り声レベルだったりするから、そちらが耳遠いか聞く耳持ってないだけなんじゃない?なんて反発したくもなるものだ。

これは架空の話として、郷に入っては郷に従うのは正しい事でもあるけれど、その郷が未だに過去の狭間に取り残されたような大古村であればメリットもなさそうに見える。でもその大古村を支持する/してきた人たちにとってはとても神聖な村なのでしきたりを守れない余所者は必要ないのである。そうやって代々身内だけで繰り返し囲われていくのが地方のとある会社の現状だ。さすがに時代にそぐわないと面には慌てて改革(外からの住人)を取り入れているように見えるが内情は大古村の通りである。

もちろん合わなければ去ればいいという時代でもあるのだけどもなかなか適所を探すのは難しい。動く人たちにとって時間や金銭はシビアに有限であるからだ。

 

私はここ最近でただびっくりした。今の時代にこんな大昔の悪しき慣習と言われたような事をずっと今でも引き続き続けている事に、だ。

 

ある地方の「架空の」会社のお話