悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

暗夜行列

生き甲斐って何だろう、何の為に生きてるんだろうと思う事がある。

クレヨンしんちゃんのアニメや漫画などでで野原ひろしが仕事から帰ってきてビールを飲むと「この為に生きてるんだよな~」とか言うけれどこの為とは何の為か。

上記の場合は極上の一杯というやつだ。満員電車に揺られ上司にダメ出しされ、人間付き合いなどの仕事が終わった後、家に帰ってきてビール(酒)を飲む。その酒を飲むという行為が全てのしがらみから離れられる最高の瞬間である、と。

これは苦しみを耐えた後の幸福は素晴らしい至上の幸せであると思える感覚に似ている。一種の惑いというのか、苦労が大きい分その後の幸せも大きいという比例関係である。実際にそうであるかは微妙だが、この楽しみは苦しみの後にしか味わってはいけないという教訓のようなものは今でも身に染み着いている。

必ずしもそうでないと思うにしろ、これは非常に厄介な迷信のような教えであり、例えば風邪で学校を休んだが、身体は元気であるときに皆が勉強しているであろう昼間からゲームをするのは罪悪感がある。だからゲームをするのは皆が帰ってくる時間、夕方からしようということになる。

無意識的な我慢。別にゲームしたければすればいいのだ、それで身体が大丈夫ならと思うが罪の意識はずっと消えない。

 

楽をしてはダメなのだ、皆が苦しい時に私だけが楽をしては駄目だ。何故?そう思うのか?皆が苦しいとは私が勝手に思ってる事で、皆はむしろ自分が授業が出来る事を楽しいと思っている人だっているかもしれないのに。でも罪の意識は私の事を許さない。

 

そうやって子ども時代にも思って過ごしていて、今年を取っても私はあの時とあまり変わらない生活をしているからか、~の為に生きているというような生きがいとか成し遂げたいライフワークとかそういう無確定なものがどこにあるのかよくわからなくなった。

 

恐らくそれは先が見えたからかもしれない。私が目指したかった方向性は特に自分や家にとって何の関連性もなくて、突拍子もないことで、でも世の中を(私の見える限りで)見てみるとそれらは関連性を持っているように見えたのだ。

例えば小説家になりたいとかなら、少なくとも東京の有名な大学を出ていなければならない・・・とか。

実際はその限りでないことや例外が存在する事も知っているけれど、それでも皆目に付く人はそういった名のある大学を出ているものだ。

気になった曲を改めて調べてみると、その作曲家や作詞家も名だたる大学の出だった。思えば明治の文豪たちも皆最高学府を出て教養の高いインテリたちで、文章や物語を創造(想像)し書くには一定以上の教養や学が充分に必要ではないかと思えてくる。

そこに至るまで私は学もしがみつく力も残ってなくて、それに強くなりたいというわけではないけれど、でもある程度の法則じみたものが常にあって結局法則の通り世の中は廻っていくような気がする。

これは遺伝でもそうだ。私のこの神経の不調も親や祖父母のそういった傾向や素質から受け継がれているもので、やっぱり可能性はある一定の法則通り収束して帰結していくのだ、という諦観と絶望とが入り混じっていく。

~の為に生きていく、生きる。って何の為に?大事な守りたいものも私にはない。例えば家族とか子どもとか仕事とか私と同世代の人はそう答えるだろうか。

オタクならどうだ?推しの為にとか言う言葉は随分と聞いたけれど、前までの私ならそう思える魔法にかかったかもしれないけど今はその魔法がすぐに消えたり不定期だが確実に来るタイミングでこうやって「自分は何の為に生きてるのだろう」とか「私にとって楽しい事って何だっけ」という気持ちが起きる。

 

とりわけ最近は自分がどこに行くべきで何を目指したいのかがわからない。

このまま進んで行っても悲惨になる未来はちらほらと見え始めているのに、それにどう対処しようか検討もつかない。いやその未来を変えられるほど力を私は持ってないのだ。そう思ったら希望も展望も兆しも何も湧いてこなくなる。

 

この前書いた古代ギリシアの壺絵や壁画(フレスコ画)などを検索して見た瞬間は面白くて楽しかったけど、それがこれから先に自分にとってどう活かされるかはなくて鑑賞という一つの趣味でしかなくて。

かつ、それを常に見て楽しいと思えるという保証もないから、楽しいものだったからといって毎度見ることも出来ない。昨日は楽しかったけど明日はつらくなるかもしれないのだと思うと、その不確定さに翻弄される。

 

思えば学生時代の自分は何であんなに意欲的だったのだろう、学生時代でなくともつい1、2年前までの私は何であんなに根拠のないものを信じて、あとこの為に生きているんだという物を持って守って生きてこれていたのだろう?今思うとそのよくわからない活力の根源がどこから湧いていたのか謎だった。恐らく空虚な自信があったのだと思うけれど。

 

今の私にはこれが私の・・・と思うものがない、一瞬思ってもすぐ消えてしまうか惰性で執着しているだけなのかもしれないと思うと何だか全てが無に虚空に消えていく感じがある。

 

クレヨンしんちゃんの話は色々パターンがあるけれど、思い出した話の中のエピソードの一つはこれだった。

あまりにもひろしがビールを美味しそう(「この為に生きてるんだよな~!」)に飲むものだからしんのすけとひまわりがどんなに美味しいものなのかと興味を持ってあの手この手でビールを一味味わってやろうと色々と画策するのだが、ひろしにこれは大人の飲み物だといわれて失敗する。・・・のだけども一悶着終わってひろしがビールをつぐと床にこぼしてしまう、雑巾を取りに行くひろし。チャンスとばかりにしんのすけたちが床にこぼれたビールを吸うのだが・・・

まずい~。となって結局それぞれ口直しにいつも飲んでるジュースとミルクを飲んでこれが一番という結果になる。拭きにきたひろしが消えてなくなったビールの痕を見てあれ?となって終わり。

 

(自分で要約?あらすじ書いてて何で書いてんだろと思ったけど・・・)

 

全く楽しいと思える事がなくなったという訳じゃないんだけれど、何かを成し遂げたいという意欲とか意識とか目標がなくて何なのだろう、という気持ちが強い。

就労したところでこの気持ちは消えないかもしれないな・・・。

もちろん大多数の人にとってほぼ自分の生涯かけてのライフワークとか成し遂げたい事なんて、大層なこと思える事はないとははてなのブログでも見かけることがある。

自分に価値があると思わない方がいいとかね、芸能人とかじゃない一般人は自分自身の価値を模索するより自分が達成できた物事に着目しよう的な。

 

さっきの不幸の後の幸せの話と矛盾してしまうかもしれないけれど、自分は自分ではあんまり学生時代を含め良い出来事がなかったからそれがあるから報われるかもしれないという願望を抱いてきたのだと思う。

例えばいじめられた経験があったら(嫌なこと)その分何かを実現できる人になれるのではないか、という根拠のないものだ。

でも実際そうやって不運な出来事をバネにして自己を実現できるようになった人は限られた成功者を見ていただけなのかなと思うようになってきた。私個人が出来事に甘えて、あまり目指したい方向に努力をして来なかったせいもあるのだけれど。

そのせいで自分は特別なんじゃないか?特別な一人なんじゃないかという錯覚があったのかもしれない。現実は別に特別でもなんでもなくてちょっと不運よりな人みたいなだけで、そこに特別性も何にもなくて。

だからそこに気付いた時になんか本当に自分は何にもないなっていう無力感とかがあって今に至ってる的な何かか。

本当に何なのだろうな・・・。

 

 

なんだか暗くて取り留めなくなってしまったので一旦終了します・・・。