悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

井の中のガイコツ

奇々怪々文

とある方のblogを見て、今の自分が突然に何もできなくなったのは、その行為に何の自信(確信)も得られなくなったからなのだろうかと思った。

趣味に没頭できなくなったのは、私自身がその趣味に価値を見出せなくなった(揺らいでしまっている)のだろうか。
二年前まで無条件にそれに没頭できていたのは年齢という期限を無意識的に定めていたからなのだろうか。
つまり私も結局世の人を見習い、この年齢までは許されるものがあの年齢からは許されないものだという価値観に揺らされている。

そして皆、そうではないと最初は抗いつつもいつの間にか結局はその流れの中に呑み込まれていて、「やっぱり自然の摂理には、」と言うものだ。

誰も前例がいないように思った。だいたい多くの人には最終的には血の繋がりだけではないパートナーと呼ぶような存在が出来るものだ。
だから前例は少なくていないように、見えないようになる。


私が趣味をできなくなったのも、きっともうそれが自分の為にならないという事を悟ってしかったのではないかと思えてくる。
私の意志としてはまだそんなことはなくて、やり残した(やりたいと思う)事もたくさんあるのに、と思うのだけれども私の意思の裏で、見えないところではそれをするモラトリアムはとっくに過ぎているのにという認識が身体にはあるのかもしれない。恐ろしいことだ。

例えば30を過ぎてアニメやゲームなんて、40を過ぎて同人誌なんて、50を過ぎてもBL趣味?・・・そういう昔ながらの”当たり前”でない価値観、偏見が私にまだ残っているのかもしれない。
但し家庭を持っていたりすることや社会的に上位の立場を持っていたら趣味として許容される。ある年を境には家庭や地位があればそれらに現を抜かしても許されるというような何か。

この呪縛は厄介だ。
私はそうした”今まで”を超えた場所にいたいとは思うけど、周りにも誰にもそういった未踏を踏むものは見えなかった。

即実的にそうしたければいよいよ出家しかないけれど、まあそれはけっこう悪くはないかもしれないとも思う。


私自身が揺らいでいるのだ、価値観に。この年齢ならこうでなければならない、こうあらねばならないという規律や模範に。



きっと、この年でそれを成し遂げたいと思うには遅すぎるという自分自身の足枷が、その年ならもう伸びしろも可能性もないよという戦力外通告のように。もうそれをやっても意味のないなんて、自分でわかってるでしょ?と自分に言われては冷たく重くのしかかる。

可能性という言葉は実際は期間が厳密に定められた誘惑的な言葉。大器晩成という言葉もそのようだ。




ここからおふざけタイム

そして一番の呪いの言葉はフツウだよ。
普通は・・・というフツウがまだ生きていて、しかも形を微妙に変えながら生きていくから厄介だよ。
きっと今のフツーがちょっと異なるとしたら今の若い子どもたちが中心になるときだろうか?その頃はもうボクたちはとんでもなく年寄りだろうし生きてないかもしれないけど。

それとも歴史は常に繰り返すものだから、また昔と同じようになっていったりしてね、でも昔の方がまだ実は暮らしやすいということもあるのかもしれないけどね。


自由意志なんて難しいことだらけだよ・・・ドラえ
もん・・・。

※(書いた内容はドラえもんとは一切関係ありません)