悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

精神の病と葬式

結局祖母の死去の一連の儀に参加する事は出来なかった。お通夜も告別式(実はこれから火葬である)にも行かなかった。自分の今の体調を考えるとほぼ無理というか、ああいう儀式は逃げ場がないと思うとそれだけで苦しくなってくる。尋常じゃないほどの緊張感が襲ってくるのがわかる。その為の薬、安定剤じゃないかと思うも多めに飲んでも何となく駄目そうな気がした。一番最初の頃は何となく行けるのではないかという気持ちもあったが、亡くなった当日の夜に亡骸を見に行って、それから仮通夜、本通夜、今日の火葬と日を追う事に参加は無理だという気持ちが増していった。車で待ってればとか、辛くなったら出てればいいというのも想像上や葬儀が行われる前には何とでも言えるが、実際儀式が始まったら途中入退室自由だなんてのは難しい。こういう形式ばったところが堅苦しすぎて、持病ある人や色んな理由がある向けに自由に出入り出来るようなシステムを作ってほしいと切実に思う。もっとフランクでいきたい。(その点結婚入学等は「おめでとう」とかその日だけで済むから気持ち楽よなあ、まあポジティブな物事という大きな違いはあるが)

実は行かないのも物凄くモヤモヤした、親戚皆が皆行ってる訳でなくて都合上私のように行けてない人も少なくはないのだが、直前まで迷ったが、行って体調が悪くなるリスクと秤に掛けた時、どうしても生きてる人のリスクの方が大きい。行ったら行ったでカタルシスはあったのだろうけどその最終局面を迎える前の一連の流れに耐える自信がなかった。(お骨を拾うのもあの空間に逃げ場がないと想像すると辛い)私自身、色々恩恵はいただいてきたと思うし祖母には本当に最期は申し訳ないけれど、家で待機させてもらう事にした。

(行かない本人にとって後悔するかしないかが重要なのだが私の場合は自分の体調の不安定が大きすぎて後悔というよりその前段階ぐらいののモヤモヤはあるのだがやっぱり厳しいなと、行かなかった事にも若干今現在モヤモヤはしてるけど、どうしてもこればかりは仕方ないと言い聞かせるぐらいしか出来ない・・・苦渋というか行くも辛ければ行かぬも辛いってどちらにせよ辛いものである)

 

実は長子である父親も一連の葬式には一切参加していない。一番出た方がいいだろうけど延々とテレビゲームで現実逃避している最中である。私のように実際に症状が出る訳ではないのだから・・・とは思うも明日も通院日だというから。

 

親戚は皆事情は知ってるので「来るのに無理はしなくていい」という言葉に最大限甘えさせて貰った結果になる。こういうときに精神病者の葬儀への参加等ってほぼ無理だなと思った、身体精神への負担が大きすぎる。コロナの時はズーム等使ったリモート参加葬儀なんていうのも結構あったかもしれないけどアフターコロナの今でもそのテクノロジーは残しておいてもいい気がする。遠隔に住んでて高齢等で参加出来ない人だっているだろとか昨今色んな事情で実際にその場に行くのが不可能な人もいるのだからもうちょっとシステムというかコンパクトにならないのだろうか・・・。人の死を映すなんて穢れだとか不謹慎だろうかと思うも自分本位的考えでありながらも、そういう部分ってこれから進歩していったりしないかな・・・。亡くなったらすぐに荼毘に付して火葬場で解散みたいな・・・。辛さがあるのだからなんか現代風や近未来風の折衷案っ出て来ないか。

 

 

・・・闘病ではあったけど最期に見た祖母は安らかな顔で眠っていた。先月まで眠れないぼだとこぼしていたようだがやっと眠れたというような眠り顔だった。実は亡くなったのも本当に急だった、亡くなった当日の早朝には施設の方が巡回に来た時には普通に水を飲んでいたらしく、二回目に施設の方が巡回に来た時にマグカップを手に持ちながら眠ったように亡くなっていたらしい。癌の痛み止めも本格的な使用段階という程でもなくある意味ぽっくりと眠るように旅立った感じだったというからそれは幸いだったのかなと・・・。

しかし直前までは生きていたのだと思うと死っていうのはやはり突発的で不思議なものだと思う。

なんか本当に現代問題と絡むと冠婚葬祭は大きな負担というか、葬儀は特にツラいので何かリモート葬式とかそういう技術や途中入退室有りみたいな新しい?ルールみたいなのが増えてくればいいなとか家でこうやってぼーっと思ってる。

 

しかし、死ってどこから始まるのだろうとぼんやり考えていたんだけど実は肉体が亡くなるより生きていても意志疎通が取れなくなったりする辺りからももうそれから記憶の中のその人が表れ始めてしまうかもなって思った。認知症とか精神病その他諸々で充分や満足なコミュニケーションが取れなくなった時から、いや自分の記憶の中にあるその人の人物像が変わっていったりするとか辺りから、実はその人と自分とにおける距離感の遠さとかが出てきてそれが強い言葉で言えばある意味死と似たようなものなのかもなとあくまで自分の中の考えではあるが・・・。

 

まとまってない内容ですがモヤモヤもあるので少し掃き出し書き出しです。

 

追記)それでも自分は何にもしてないのに疲れたって気が起きるのは何でだろうな、気疲れというほど私自身も気に病んでる訳でもないとは思うのだが、家で待機してるだけでも凄く疲れる・・・やっぱり全体の雰囲気とか場の空気とかが伝心されるのか。穢れには伏するとか古来のしきたり的な穢れは伝播するとかそういう概念のあるオーラのようなものがあるのだろうか・・・家でサボらせて貰ってるのに疲れるとは如何に。