悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

回顧録

今から15年以上前くらいに全ては可能性に満ちているように思ったのは、自分がまだその頃は学生だったからだろうか。
学生の頃の(ある意味子ども特有の)万能感でそう思えていたのか、社会や世界自体もそういう未来への可能性に満ちていたのだろうか。

インターネットは既に普及してたけどまだまだサービスの発展余地がたくさんあって、YouTubeとかもニコ動もそうで「うたってみた」「かいてみた」「じっきょうしてみた」はリアルタイムでそれらが生まれてくのを見た。
それらを見て自分も生み手側になれればいいなと思ったりもした。

そんな頃社会ではリーマンショック問題が起こったりしたけど、黒人初の大統領が出てこれから何か新しいことが起こるんじゃないか、歴史が始まるんじゃないかという新しい期待に満ちていたような気がした。

ゲームも、個人的にこのくらいの時代のが潤沢な資金で丁寧に作られてるような気がして雰囲気は好きだ。今の方が開発費の額が比べものにならなそうだし、名作良作も多いけど。なんていうのか今のゲームは結構複雑なテクニックを必要とされるものが多いように感じて、忙しいなと思う。良くも悪くも当時くらいのゲームはのんびりしたような感じがしたのだ。でも、丁寧さみたいなのはあって。(私の好きな範疇での話でしかないのだが)
今は丁寧さが完璧な細かさのようになって逆に繊細なように見えるのかな・・・。

脱線したけど、今日もまだ可能性はこの世に満ちているのだろうか。
私がただその位置にいないからそう思うのであるだけで、社会も若い誰かも可能性に満ち溢れているのだろうか。
もし私が作り手側になっていたとしたらまだまだ可能性に満ちて発展の余地は充分にあると考えて目を輝かせていたのだろうか。

結局それに人生をかけようと思うほど本気じゃなかったんでしょ、と言われてそれは人生をかけて成功したモデルだけをみたからであってそれは人生かけたら全てそうなる訳じゃない。(悪魔との契約でもしたらそうなるかもしれないが)
人生をかけても成功しなかった人が成功した陰の裏で大勢いるはずなのに、本気度が足りないなんて言えることがあるのだろうか。

また少し脱線した。
だが今に人生をかけたいと思って楽しみの可能性に満ち溢れていることやものがあるのだろうか。
それはやっぱり然るべき立場に自分はいないからだけでそう思うだけなのか。それとも全ての全体が飽和的な状態になってしまっているのか。

その立場にいたらこんなことは思いもしないのだろうか。
まだ物事は可能性に満ちている!と未来に兆しをもって臨めたのだろうか。

若き人たちはまだその可能性見失ってはいないのだろうか。



・・・老いゆく者の懐古録でしか御座いません。