悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

抗えないモノ

セカイにはやっぱり抗えないものは存在しているのだなあ、と感じた。

そして自分にはやはりソレを享受する資格はないようだ、ソレはタレント・天性の才能と言うとか何とか。持ってる人とかいう場合の”持ってる”ソレが既に対岸から見えている時点で私には縁のないことなんだな、と気づく。

これは推測だけど、渦中にあれば周りを見渡すこともできない。目の前に集中していったら自然とその渦の中に巻き込まれていたのだろうなと思って、自分からそこに適いたいという意思がある内ではの反対側から渦中を目撃しているのであり、たぶんそれは物と対峙した場所からの景色でしかなく、見えるということはつまり持っていないということになる。

羨ましいな、と感じてからわたしも同じようになりたいという思う中で相手を見ている分、自分のことが見えていないのだ。
若いときのそれは”可能性”という曖昧な言葉でぼやかされるが、それでも持たざるモノは持たざるモノとして、努力という励ましの言葉もあるがそれでも事実は事実として突きつけられる。


ずっと前にどこかで読んだような、はてなブログかもしれないけど(作者が誰かは忘れてしまった)こんな事が書いてあったようなのを思い出す。ある文学的な傾向というか小説の中のキャラ傾向か作家の性別とかそういう辺りのことだったか忘れてしまったが・・・(特別になりたい女の話みたいな漫画の話だったような・・・)

ある理想通りにはなりそうにない、とか手に入れたい物事が自分には手に入ることができない、とわかったとき女性はそういったものにどこかに着地点を見つけて理想と現実とに折り合いをつけるのが得意だとみた。

たしかに、叶わない夢だとわかると現実に目を向けて現実の中でまた自分にとって”良い”と感じることを探すような前向きな行動は女主人公あるある(?)な気がする。
対して男性は夢を捨てきれないまま過ごしがちだとか、極端な例だと死を目指してしまうだとか・・・。

よく俗説では別れたカップルの女性は男性への未練を簡単に捨てるけど、男性は女性への未練を簡単に捨てられない・・・だとか言うけれど。(それってその人の個人によりけりだよなあ・・・とは思うけど)

私もそういった女性主人公のように駄目だろうな、とわかったら早いうちに新しい善いことを見つけるだとか今までとは別のライフワークといえる何かを探すとか方向転換をしないといけないのだろうけど・・・。
だけどそれは結局、自分が凡な主人公であるという事実と直面するわけで・・・そこに「ああ・・・やっぱりそうだよな・・・」という軽い絶望のようなものを感じざるを得なくて、それはやっぱり辛いものがある。
自分がわりと往生際が悪いのもあるけれど・・・。

ただ昨今のミニマル主義というか合理主義的に言えば「届かないとわかっているのになぜやるの?時間の無駄じゃない?」のような呪詛があって、しかもそれがかなり的を得ている言葉なだけに身体に響く。
自分自身も無駄な努力(努力というかたぶん最終的に何も残らないだろうと思ってやっていること)はできるだけ省きたいというのは物理的な体力とかの点でも本音なのだが、それでもじゃあやめていこうと思って止められるほど、合理的にもなれないもので・・・。


・・・こういうのってやはり時間の経過で自然に流れていくものなのだろうか、だとすればたぶんこういう思いというか執念も後数年で消えていくものだろうか・・・、だったら逆に執着している内に何か未練を消化していけばよいのかもしれない・・・とも言える。

成仏の前の怨霊化ゾーンに入っているのかもしれない・・・


もう自分が動いても何かが変わることもないし変えられるというような可能性も資格もなくなったけど、それでもなんだかくすぶったままで、このまま消えていくのはもどかしく思って。


だからやり残したと思うことはたくさん作らない方がいいよなあ・・・ということでした。