悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

酔いどれ

連休明けて、連休中は精神も身体もすこぶる不調だったけど今週はどうだろうか・・・

無を感じてしまうようになった。何者変わらない、平穏な日常といえば聞こえはいいけど、裏ではゆっくりと着実に蝕まれている日常。
行動制限はほぼ解かれて一昨年去年よりはるかに周りは活気に溢れているように思う。
それもそうで、2年分出来なかったことがやっと取り戻されつつあるのだから当たり前か。

木々も緑が淡く色づいていよいよ自然も活発になってきた。春は最早初夏へと移行しようとしているように思う。気温も日中は20℃以上上回る日もあったりする。夜はまだ一桁になることもあって寒暖差は激しいが・・・(暑いのが特にダメなので暑いよりは涼しい(寒い)方がよいのだが)

周りは着実、確実に動き始めている。今まで以上に。だというのに私の感覚はなかなか変わらなくて、また去年と同じようなものが始まるのだ・・・という繰り返しのような心地でいる。
2020年以前のような何の意味も理由もないのにやる気と漠然とした希望に満ちていた時にはもう戻れないと思う。

活発に動く世の人々と時間が止まったままでいる自分とのスピードの差。
これを二年前までの自分は何を呑気にと気にしていなかった。これまでのツケが回ってきたのだろうか。
だが今さら動こうと思ったところでも身体は動かない、ほんのちょっとした事にも身体の誤動作は始まってしまう。それが例えちょっとした種を蒔くような行動であっても。

ワクワクドキドキといった精神の高揚、興奮は今の私の身体にとって生命を脅かすような危険な信号でありえて、誤動作してしまうのだから本当に何もできないのだった。


だからひたすらに無でしかない。無であってよいのだけど、それもどこかで無であることに不安と恐怖を感じるのだ。そうなると無であることも不満になって怒りになるから厄介この上ない。

何をしても何もしなくても、全てが身体にとって毒になり得て、じゃあどうすればいいのかどうしたらいいのかというフラストレーションはまた一つの憤りになる。そうしたら安定剤を飲んで、やり過ごしての繰り返し。昼寝は面白いことに全く出来なくなったから寝て時間を過ごすということも出来なくなった。

だから今の私にとって時間というのが膨大かつ無意味で退屈でつまらない不安の連鎖であるように思えてしまう。(働いている人たちから見れば贅沢な悩みのようだが)
何かを為すにも技術も知識も足りない自分にとっては、変わりばえのない平穏な日常というのがこの病に陥ってからもあるけど憂鬱でしかないのだ。
逆に時間が足りないという人に時間を分けてあげたい、とも思うがこれでは一種のナルシシズムのようだ。

しかし時間が足りない人で時間があれば何でもできるといえる人はたぶんある程度幸せだと思う。時間さえあればその事を成し遂げられる技術と知識と自信に満ちその才を持っているからだ。


今日は今のところは比較的上下のない無であって、だからつらつら書いているけども駄目なときは文章を書くのも駄目であるので本当に厄介で。このどこにも行き場がないような感覚はどうしたら昇華できるのだろう。


ちょっと今日はおかしな文章になりました。