悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

間違った選択

自分本当に選択というもの苦手だと思う。
正確には決めた事を全うするというか・・・何が何でも私はこれが好きです、みたいな信念を持って事にあたるみたいなのができない。理想としてはそういう強さに憧れてるしそうありたいけど実際できない・・・。

特に自分で決めたことは本当にこれでいいのだろうか、間違っていないだろうかと周りを見回してしまう。そして大抵やっぱり自分の決定は間違っている方だよなあ・・・なんて思う。
正しくありたい、正義でありたい、大多数でいたい、自分の決定はだいたい少数派なので理解も得られにくいのだ。

殊更最近のネット社会ではSNSの発展に伴って、より数というのを意識しなければならなくなったように感じる。一昔前ではマイナーだろうとマイペースにできたと思う。しかし今は数こそが正義だ。
見えていなければないのと同じ、マイナーはマイナーのままでは見つからないしマイナーは数の力を使ってメジャーにしなければならない。
常にマイナーはメジャーになるチャンスを伺っていて、それぞれのインフルエンサー的な存在に目につくかどうかが左右する。

そしてこれらとは別にメジャー自体が意味あるものとして捉えられがちで、人気=強さで人気であること=それなりの意味(ソース)があるという覇王論。強さ/人気はマウンティングツールになっている節も見られる。
するとマイナー=人気ないもの、として意味のないソースのないものとして下げられる。

人の多さが正しいとか正義だというわけでもないだろうとは頭では理解できるが、実際数の多さを目の当たりにすると判断を鈍らせる。ましてや数=強く正しいという考えの人たちが多い場所では私の好きは本当に正しいのか、私は間違っているんじゃないかと不安になる。

根底にあるのは私の好きも正しいという思いだ。だがこの世界には正義は二つとあってはならない、正義の反対は正義ならどちらがより正しい正義なのか。すっかり自分もこのマウンティング合戦の型にハマってしまった。
一昔前(いやいつ頃かだったか)のように「私は私、人は人」と言えるような境界線はSNSの膨大な発展に伴って消え失せたように感じる。常に争いに巻き込まれているような緊迫感、常に誰かと共有する連帯感は個人という主役を際立たせているように見せかけながら実はその個人の境界を曖昧にさせているように感じる。

その巨大な一体感の中に私も混ざりたいのか、私の選択と決定は彼らと異なれば異なるほど気が気でなくなる。私だけで自分自身を肯定できるほど強くないのだ、私は。
思えば自分で決めたことが良い結果になって残っている事が少ないあるいはないのだ、私は常に間違ってきたように思う。私はあまりいい選択や決定ができない、だから間違ってない正しい選択をしたい。

その間違ってない正しい事は数でだいたい決まる。だから現実社会の少数派と言われる人たちも大多数の承認を得ようと必死だ、少数派は少数派として大多数と平行して平和に過ごしていくことはできない。少数派は大多数を認めさせ、大多数の中に組み込まれることによって正義を勝ち取らなければならない。結局数が多ければ多いほどよくて数を味方につければ強くて間違いのない正義になれるのだ。

私がどう思うか、好きであることにも理屈を求められるのは非常に息苦しい。何となくといった感覚が通用しない、というよりそれは見下される。人気がなければ尚更ソース(理屈)のないもの意味はない、個人の感じた感覚は意味のないもの、間違っている事なのだ。

私はわりとミーハーだから間違っているものとか正義じゃないものはできれば避けたい。(かといって大多数に流されるのも嫌なのだが)

間違っていたくない、正しくありたいという恐れは自分の決定と選択を否定する。

自分はいったい誰の何という基準に動かされているのだろう、正しさと間違っている事の物差しはどこにあるのだろう。ときに蠢く大衆は私を狂気に取り付かさせる、空洞の私の中に入り込んでくるからだった。