悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

RE帰還

1日経って昨日の記事を思い返すと、すごく不満があったみたいな内容になっているな・・・。
先方と合わないとかすごく嫌なこと突かれたとかそういうわけでもないのだ。ただ自分の期待と実際の「あれ?」という部分のすれ違い、少し私が勇み足過ぎた、諸々期待しすぎた面はある。
結果的には良いのだ、念のためにと採血検査もしてもらえた。
同時にただ単純に行く順番を間違えたとのかとも思った、精神科は”最後”に行くところでこの前ボロクソ書いてしまったが本来は初めに内科や心療内科にかからなければならないのかもしれなかった。


例えばケース1に当てはまってるだけなら傍目からみてほぼ医学的には概ね健康と言えるのだろうか。ただちょっと今だけ、みたいに。
これじゃあ私は”引きこもり外来”にきたみたいだなあと思ってしまったけど、特に上訴したい気もない。客観的にみてそう見えるならそれでしかないのだろうし、私が個人的に思ってきた我慢のような何とも言えない晴れなさは別件ということになる。晴らしたければ、別途カウンセリングの場に赴くことが必要になるのだろう。

ただ私の遍歴がふつうのケースワンに当てはまるのだろうか、ある意味の自負ではないけれども。他人にいちから話そうとしてもうまく体系的には話せないだろうし、断片的に話せばケースツーのパターンになるとかそれだけで終わってしまうかもしれない。
ではこのモヤモヤは一体どこで話せばいいのだろう、いやもとより他者に話すべきではないのか。私自身の内にしまっておかなければならないのか。

そうやってただ抱えていくだけでもつらいのに「人は他人には見せないけれど一人一人多かれ少なかれ苦しみや痛みを持っているものだ」というけれど疑う。これを強者が言い出してしまえば方便だ。弱者には「お前だけツラいんじゃない」と振りかざし、いざ強者が苦しみに陥ればこの論理を振りかざせばいい。実際にこの言葉は我が家のロクデナシに振りかざされた。
だからかこういう言葉を正論のように振りかざされるのは懐疑的になる、どうしてもそれを発言した人の影がちらつくからだ。
ただ道理としては事実なのだろうとは思う、一人一人物事の感受点は違うし、重さも違う。
だがこの言葉のいやらしさは全てに当てはまるから、私がロクデナシを言うこともロクデナシ自身から俺の重たさは人よりも重いのだと言われれば私がこの場で書いてることもそれと同義であると思われるだろう、実際にそれもこの上ない不服なのだ。

違いがあるとすれば私は他者に話を聞いてもらいたい、私がどういうものに当てはまりどうプロファイルされるのか他人に自分を理解してほしいという欲がまだあるのだと思う。
それも自分でも納得でき信頼でき尊敬できる人たちでなければならないのだろう、やはりこれは御伽噺のような巡り合わせを待っているようなものだ。


やはりまた別の場所を探すしかないのか、ただちにとか言わないが来月以降も場所探しは続きそうだ。
どうしても飲み込めない疑問符が浮かんでくる部分があってそこを抱えながら行くのももやもや薄曇りのままだ、どうせならすかっと晴れたい。

何らか放浪は続く。