悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

閉塞的な中で

この閉塞的虚無感がひどく蔓延しているな、と思った。主たる原因は疫病渦ゆえだろうかと思いつつも実は問題自体は疫病が流行る前からあってそれがパンデミック事態を迎え一気に噴出したような気もした。疫病はその問題に拍車をかけたというか蓋をしてきた諸問題事を大いに盛り上げるのに一役買っているのでないか。

といいつつも目先に疫病の落とす陰、存在は大きくコロナ疲れなどという言葉もあるが人々は物理的に外に出られない苦しみというより重症になるのではなどの死への不安や他人に感染させないための徹底さや責任を求められる、公共の場での一見相互監視じみた行動などそんな注意と根源的恐怖の情報に疲労困憊しているような気もする。
テレビは家にいる人向けの筈なのにそのあまり外に出ないだろう人々をさらに不安にしようとするのだから一体何向けの発信なのだろうと思うこともある。
家にいてもいつ感染してしまうのか死の影に怯え結局積極的に外に出ている人たちの方が恐怖に怯えることなくわりと健康的に生活していそうだと思った。

それでも公に活発に外へ出て何かをすることはできなくて、閉塞感は付きまとう。
たぶん伝播しているのかもしれない。旅行ができない、学びにいけない、外に出られない、イベント開催できない・・・「ない」という否定的な言葉が個人一人一人に伝播していって、全体に行き詰まり感と鬱々とした雰囲気が蔓延していってる。「ない」が多すぎて結局何も「ない」。
いつこの状態が終わるのか希望もないし、乗り越えてゆける体力もない。仮にこの状態が終わったとして何が残るのか?以前と同じように見かけだけ取り繕った日々がやってくるのだろうか?それもわからないのだ。わからないは怖さでもある。未来はだいたい明るい展望を想像したいものだがこれからの明るい未来は霧の中の幻影のようにうまく見ることもできない。
絶望とは認めたくないのかもしれない、認めてしまえば生きる意味を失うのだ。でも絶望は事実としてそこにある。

疫病渦はパンドラの箱を開けたきっかけだった。今まで絶望がそこにありながらも意識や目を向けることをしてこなかった、何も疫病が諸悪の根源というわけでもない。先延ばしにしていた問題が露出しただけだと思いたい。遅かれ早かれその問題に対峙するのだ、それが少々急だったが今にやってきた、そうだと信じたい。

最初からこれが歴史の中に突如現れたどうしようもできない絶望だとは思いたくはなかった。
いつかは向き合わなくてはならない問題なのだ。

ただそれでも独りでいるということを強く感じられるようになった、孤独。それが一番厄介だと思った。この苦しみを分かち合ってくれる存在なんてどこにもいない。
ネットでは元気のいい人たちが数を占めていて、隅のほうでちびちび飲み語らうテーブルは廃れたような印象さえ受ける。

ただ見知らぬ誰かにおっ、と思うような暖かさも時には必要だと思った。
全て助けてやれとかそういうことじゃなく「なんか、いいじゃない」と思える心をお互いに持ち合いたいと思った。