悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

weeklyホッと点

気が滅入るようなことばっかりですみません・・・
どうも今年は色々と物悲しいスイッチがフルオン状態です、去年の今頃は本当に呑気に過ごしてました。乱高下が激しい。

でもなんだかたぶん世の中全体的にそうなんだろうな、連日書いてるけど先行きも見えない不透明な感じ、これまでは戻って来ないwithホニャラとは言うたもの。この世も末感はなんなのか。

ふと思い出して本を見てみた、確か末法思想について書いてたものがあったぞ、と勇んでみたがほんの数行書かれていただけでした・・・が、
世の中が変わる時に災い事は重なるようで・・・平安時代末から鎌倉時代(始まり)にかけては内乱や天災や疫病が流行って阿鼻叫喚だったそう、特に平安貴族たちは世も末だと自分たちの没落していくのを嘆き悲しんだそうで・・・、他の民たちもさぞ苦しんでいたのだろうと思いきや、(その本によると)次に始まる新時代の担い手である武士や一般民たちはその限りではなかったらしく、むしろ変革の時代を楽しんで強く生きていたとか。

貴族たちからすれば自分たちの生活を失うような心持ちだったのでしょうけど、そうじゃない人たちは何事なく過ごしていた・・・と。さて、じゃあ変化にある一定の恐怖や災いがつきものだとすれば今もプチ変革の時にきているのかもしれません。ですが、かの昔の人たちとは違って誰も次の新しい時代とか変革をワクワクしても楽しんでもないように見えるのです。

変わるとして一体次はどんな時代になっていくのだろう、いやしたいという意思が必要なのか?

本ではその後で宗教に救いを求めて仏教の信仰が広まっていった・・・と、鎌倉時代は内乱が多かったらしく情勢が不安定だったそうで・・・その事もあって仏教(天台宗)を基に沢山の宗派が生まれていったのだそうです。

当時は心の拠り所を宗教に求めた、じゃあ現代はどうなのでしょう、心の拠り所は”推し”になるのでしょうか。

ただ人智を超えた存在というのは時に安心感があると思います、絶対に安定した存在というのかそうした固定の存在は頼りがいがあるものな・・と、LIVE中継の如来像を見てもそう思うのです。