悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

ある人曰わく

「きっともっと早い時からやってれば極められたよ」と言われたところでどうしようもない。
今出来ているのは環境と時間がやっとできたからだ。私はやっと今になってようやくそれに取り組める時間が出来た。もっと若いうちからやっていればそれで報酬を得られるレベルにまでなれた、と言われても仕方ない。

私の若いうち、若い頃はそれに取り組める環境も時間もなかったのだ。だから「もっと早くやっていれば」といわれて私にその選択肢は意味のない理想論のようなものだ。
環境と時間を用意するのも実力のうち、本人の努力次第でどうにかなると言う自己責任論は蔓延していて私も少なかれそう思う内の一人であった。私が若いうちに環境と時間を確保できなかったのは”しなかった”のであり私の怠惰のために”やらなかった”ことなのだ、とも言える。

だが、私はこの年の身になって環境と時間は簡単に確保できないことを知った、と思う。というより彼らを当たり前に用意できるという状態がとても恵まれたものでいて若いうちにそれがあるという状態はなおさら幸運なのである。
ひたすらにそれだけに打ち込められて、他の事はとりあえず置いていても構わない。杞憂や諸問題に捉えられた環境や時間制限を考えなくていいのは羨ましいこと、なのだと私は僻み混じり思ってしまう。

後になってやっと環境と時間を手に入れた人たちが「若いうちにやっておけば」と周囲の人々から言われるのは心外のように思う。
今、この状態じゃないと私は自分の環境を手に入れられなかったのだ。言葉はことごとく残酷である。できなかったことをできていればという矛盾した理想論、空論は私を苦しめる。
あのとき出来なかったから今、なのに。何という無責任な言葉だろう、と私は思うのだ。

だったらこれから極めていけば良いのではないかと思いつつも、既に環境と時間を充分に確保された研ぎ澄まされた才のある若い人たちで溢れていて、老いたる私がそこに入っていけるというのもやはり現実的ではない。

結局、私の言いたいことは今だから出来ることを過去にできていればと言われることの悔しさだった。その物言いに耐えられなかった。どうしようもなかったことを私の努力不足でやらなかったと思われ言われることへの私の憤りだ、私の後悔とやるせなさと仕方のなかったという気がぐるぐると私の中を駆け巡って、終わりのなかったからだ。






(自分はたぶんただ本当に環境と時間はある方だったかもしれない。だから自分は私、とはちょっと違ってて自分はただの怠け物。
だけど”今”になってようやく環境を手に入れられた人がもう少し早くやっていればねえ、と言われたときのそのやるせなさと憤りはあるんじゃないかなって、その時興味があったけど色々な事があってできなかった人は特に。自分はそういうもっと若いうちに~とか言われること全然ない、極められるレベルのようなことも全くないけど・・・だからなんか何となく)