悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

無常の月

後先がない絶望状態にこれから陥るとして自業自得でしょ、と嘲笑う人が増えていると思った。かくいう私も以前はそういったマインドでいたと思うし今も完全に無くなって消えた思考とは言いづらい。何か対峙する物に出会ったときにはそういう風に思うこともたまにある。全ての事に対して優しく、とかもっと言うと全てを許すとかそういった慈悲という最高の徳を自身で持ち保つのは難しいことだ、少なくとも私はそこまで素晴らしい人ではないしどちらと言えば限界は狭い方だ。

絶望状態に向かうとしてある要素を持っていればイージーモードでしょ、なんて言うがそもそもどちらにせよイージーであることなんてないんじゃないかと思う。イージーであることにその要素は完璧に関係するかどうかは個別ケースで確かめていかないとわからないんじゃないか、言葉を大きくすれば大きくするほど全てが均一化していくのは俯瞰的な見方だ、どうしてもそうなってしまうのはネットという場所においての性質なのだろうか。

そのままの状態で考える擬似ロールプレイはただの妄想で、今の自分の状態では気持ちが良いから良いのだという事では思考実験も意味も持たない。

それでもじゃあこの世界を良くする為にどうしたら良いのかという問いに対して具体的な提案(制度や政策の改革)が掲げられる事が今という現状を現しているのだと思った。
制度や法設備が充実すれば良くなるだろうという見立ては現実の、地に足のついた有力なプランであることは間違いない。だがそこに至る前の仕組みの構造の状態から考えていかなければならない段階に来てしまっているのかもしれない。
その意識は下げられがちなのは先に上げた現実的プランを実行する方が手っ取り早いからだ、しかしそれは目の前に物を吊り下げられているだけなのだと思う。その都度餌を追いかけるばかりでは根本的な問題は延々と続いていくんじゃないかと思う。

具体的などこの何が悪いということではない。これは全体的な問題だと思う、今のだけが悪いとかどこにしたら良くなるとかそういう割り切りではない。

ただ、意識は具体的な設備を充足させたら変わっていくものだという考えは実理的なロジックであるように見えて問題の解決は後回しにしているように見えるのだ。

強制力を持った決まり事によって思考や意識が変革するのならば、そもそも自意識や意思など不要な足枷でしかない。ロボットでいいのだ。制御装置、ロジックを変えればそれで完了だ。


こういう考えの人が増えているように思うとなんだか力や気が抜けてくるのだ。