悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

goodウィル

昔から穢れという概念があった。穢れは触るとうつり、そこにあって目に触れるだけでも伝播していくと恐れられていたから忌み嫌うものだった。思えば神も穢れを嫌う。
しかしそうしたケガレに値するものはそこら中にあったからどうしても目に入ってしまう時もある。そういう時はそのものを目に触れないように隔離して、それ自体を閉じ込めることによって時が経って自然に穢れが落ちるのを待つという。
引きこもりというのは我々にとって大切なプロセスなのだろうか。思えば神話にも大神が岩戸に閉じこもったという天の岩戸の話があった。

見えないようにして隠して時間が自然に解決してくれる問題など様々にあるが、この現代の今の世の中でそうやって閉じこもっていることが最善な事があるのだろうか。古くよりそうしたことで諸問題に対処してきた術は今もまだ適切なのだろうか。

ケガレにも似た問題は現代にもあって、臭いものには蓋をして隠して放置することで勝手にどうにかなるだろうという風にしてきた事は結局何の解決もなく、ただ不安定を招いてしまったのだと思う。

触らぬ神に祟りなしというのはそういうことでケガレが自分たちにも広まっていくのが嫌なのだ。(私もそうだが)だけどもケガレはどんどんとそれ自体が膨張していっているような気になる。自然に収まるまで待つしかないのは自然災害などに多く見舞われたからこそ出てくると思う。海外のように自分が主体となって解決しようとする事は性分ではない。(ケガレを徹底的に弾圧するのとどっちがよいと言われれば・・・・・・だが)

だからケガレはそこに一体となってしまわれ続けそこにずっとあるままだ。

ハレの前にケガレは持ち込んではいけないのだ。場の空気を読むというのはこうした事で培われてきたのかもしれない。


ケガレそのもの自体や発生するメカニズムを阻止しどうにかしようと考えなくてはならないのだ。ケガレを怖れるな、きっとカミを失った我々ならたぶん出来る。