悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

そこはやさしい場所なのか

人々は繋がりあいたいと思っている、相手と同調したいと思っている。境界線を溶かして相手と一体になり、一つの巨大な集合体となってムーヴしていきたい。そんな拡張的で超人間的な思考はインターネット、特にSNSの普及がもたらしたネーションで、またアンセムのようだと私は思っている。

かつて村の共同体は生活を共にした一つだったが、それは同時に古い掟に縛られなくてはならなかった。しかし村から街へと生活が発展していく中で、工場などの近代化システムはそれまでの意識を変容させるまでにもなった。

雇用制になり生活が今までより豊かになる中で、都会に出てきた働き人たちは自らの個というものについて考えだした。都会では古臭い村の掟や習慣はあまり意味のない。近代的な自我の形成はここから始まったのかもしれない。
家や土地のしがらみから離れた先で、自らが新しい家として代を始められた。全て自力で成し遂げやってきた。

そういった事が古い繋がりをほぼ断絶させたが、だがそれが当時は新しい時代の幕開けで監視から逃れられた自由が始まるといったような清々しい出来事だった。
それから数年間は自己とは個性とは、と個を重んじてそれぞれの意思をはっきりと誇示して認めていく事がスタンダードのようになった。
だが自ら考える事の意思は議論が行われていなければあまり意味のない。
結局個性とはただ競争をしないで皆一直線上に並ぶことが個性なのだと言われた。
そこに個人的の意思の有無など関係ないことのようにただ平等で存在することが個性なのだと言われたのだ。

そうした中で多様であれという流れがあるが、やはり人々は自らが発信していける独立した個性であるようになれ、という課題はなかなか遠いように思う。私たちは一人でも大丈夫だとか自分だけが自分の最大の理解者であるとか、私のの感性は自分だけのもの、だとかの言葉にある強き個であれ、という指標はなかなか重荷であるように感じる。
人々は誰しも主人公というのは前向きな言葉に聞こえるが実はとても重たいように思う。誰でも主人公になれる訳ではないのだ、という事を知ってしまった時、私は自身の個が自分の中で崩れ去って自分の形がなくなっていくような絶望感を覚えるだろう。

だからか自分が一つの個として存在しえないとわかった時、あるいは絶望した時に誰かと一体になることで共有したいと思えるようになるのではないかと。同調したいと思った存在と一つになれる感覚はたぶんリアルではなり得ないネット独特の特有の感覚なのだと思う。
それがアンセム的だと思った。

誰かと一つになることが一つの個として自我を独立させることができ、その人の幸福や満足に繋がるというのは村の共同体のようでもあるし、一族としての意識にも似ているなと思った。

個人的であれと叫ばれ、それが良いことだとして掲げられてから現在に至るまで人々の中の寂しさは知らない間に蓄積されていったようにも思った。
誰かの生活を垣間見て安心しあるいは嫉妬する事はまるでかつての村の一族の意識のようなもので、SNSで繋がっていることの必要性と重要さはそうした共同体という意識の発展的なある意味での理想形なのだろうか。


結局人はお互いを認識していないと崩れ消えてしまうというような事を体感しているような時勢にあると私は何となく身を持って思った所なのであった。