悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

他人との間

欲が出てきてしまっている、と思った。見られたいとかそういうの、ただじっとしているだけでもちやほやされたいのか、よっぽど才能がないとそれは不可能に近いし、そもそも自分から誰かに向かって語り踏み入れなければならないのはわかっている。人は双方お互いにコミュニケーションをしてやっと関係が開かれる。ただ一方的に待っているようでは何も起こらない、お伽話のシンデレラはそもそも夢物語なのだ。だいたいにおいて自分から行動をしていかないと道は開けない。

しかし私は自らコミュニケーションを取りに行くというのが苦手である、大まかにいえば膨大なプライドがそうさせる。プライドを保てるほど自分には何の取り柄も才能も”もの”も持ち合わせていないのに、どこから来るのかこのプライドは他人に分け入っていくことを許さない。ばかりか時として他人を見下す面もあり非常に厄介である。

だがそれはそれとして他人とコミュニケーションを取るとき私は自分が何を考えているのかわからなくなる事もあった、私がいったいどういうポジションでどうやって返せばいいのか、私のイメージから導き出される最適な答えを演出してしまうのだ。この辺りがプライドといえばそうかもしれなかった、だが本当の自分を他人に見せると言われたところで本当の自分とはいったい何なのかわからない、ただ外で見せるべきではない部分に口の悪くネガティブな考え癖があるがこれを社会上のコミュニケーションの場に表に出すべきではないことは最もで、その”本当の自分(の一部)”を出したところでコミュニケーションがよりうまくいかなくなることは想像に容易い。

誰かとの仲良くする仕方がわからないのだ。全ての物事にはギブアンドテークみたいなものがあって、交流にもそれがあるように思う。
無言は気まずいから話さなければならない、何か明るくて面白い会話をしなければならない、場を盛り上げなくてはならない、機嫌を損ねてはいけない、という思惑を張り巡らせては気疲れするのももっともである。実際には行動に移せている訳ではないから後で上記の考えを思い巡らせては”あの時こうしなかったから嫌われたかもしれない”と後悔が来て人に会うことがどんどん億劫になっていきそして他人と深い所まで関係を築けない。(だからこそお泊まり会とか平気な学生さんとか夜遅くまで飲み会するとかすげえなと思うし憧れがあった)

自分の中の他人像はどんどん肥大していくのだ。

小さい頃は思えば顔色を伺っていたのだろうと思う。特に父親は自分の機嫌の都合で急にキレたりするタイプで、何か父親にとって気分の良くないことを言ってしまうと勝手に逆ギレされるので言葉や大度を選ばなくてはならなかった。その上私はわりと忘れたり気にせずに自由にするタイプだったのもあって何度もそういった”注意”を惹きつけてしまったのもあってそういった逆ギレやキレは私に集中したと思う。
大きくなると自分の意地を通したい事も出てきたがだいたい目を付けられてしまうのである程度言葉は選ぶようにしたがそれでも理不尽に言われることは多々あった。

だからか他人といても何か楽しませなければならない、と勝手に緊張してしまうし責任感みたいなものを負ってしまう、もうこれはずっと治しようがないと思う。たぶん人と一緒に何かすること自体は嫌いではない。でもどこかで一人になりたいと思ってしまうし、それ以上の仲良くなり方はわからない。

お互いのウィークポイントやラフな部分を見せ合ってもそれを許容できる関係は羨ましいと思う。私は今はいつかどこかでそういった人たちと巡り会えるだろうとただ待っているだけだ。夢を見ているだけのシンデレラのようだ、そんな事が起こりえる器ではないのに。