悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

その身枯れ果てるが如く

徹底的な効率を考えた場合、自分の損になる人とは関わらないという考えが浸透すればどうなってしまうにだろう。
コスパや時短などのノウハウの需要の高まり、効率重視は損を一に考えた上での自分が絶対に損をしたくないという考えに基づく。
人間関係においても同様に自分が損をする相手だとかメリットがないという考えが徐々に浸透していっていると思った。
人間関係の効率化はそれにあぶれないようにするためにお互いの競争は苛烈になる。グループはどんどん彼らだけの上等なサロンになるが、そこからつまはじきにされないようにするための自身の研鑽が始まる。
そのふるい落としに堪えられる人は上等なコミュニティの為に自分たちを高め合い、気鋭の超集団として掲げられる。だがそこから追い出されてしまった人はまた新しい似たような集団を見つけてアピールするか、そういった事が繰り返される。

簡単にいえばその人たちに自分たちとともにいることを許可された人はそのパーティの一員として何かを成し遂げられたりするかもしれないが、許可されなかった者はまた別のパーティに加入するためにアピールしていく、それが追い出されたりするたびに繰り返し起こるという話。

人間関係の効率化は突き詰めれば同じ素晴らしい人がどこにも所属しているような貴族の社会になってそうだと思った。

なんでこんな事を書いたというと自分はどこのパーティにも許可されなさそうだからだ。というより自分の望むパーティには、という方が正しいか。
それはそうとアピールする事がもともとできないし疲れてしまう、「私はこんなことができます、こんなに面白い人です」という自己アピールの自身の取り繕いが出来なくなった。もともとアピールポイントも人にプレゼンできるほど何もないので、その継ぎ接ぎを隠す事が出来なくなっただけだ。

私もパーティの一員になりたかった、そして何かを成し遂げたかったが、それは既に不可能という段階まで来ている。

私は非効率側の人間なのだ。なんのメリットもない。易しい言葉を掛けてくれる人がいたとしてその人は仕事を行っているだけで、マニュアルのパターンの通りの一つとしての接し方なのだろうと思う自分も嫌になる。
つまり全てはマニュアルやものの本の中の何章何節の中に書かれた対応策に載っているのだ。

人間交流の効率化も具体的なマニュアルがあるわけではないが、ネットで書かれた人々の特徴はこれに近いのかもしれないと思った。

私自身も効率側の人になりたい気持ちは持っているしそもそもいじめのような非効率と関われというわけでもない。ただこの先そういった目に見えるようなものだけでなく先鋭化が進めば本当に一握りだけで関係が回っていきそうなのだ。つまんなさそうだからとか楽しくないからとかそういった部分にまで回帰していくのではないかと思った時につまらないと楽しくないを払拭できるほど自分に能力はないのだ。

どこに行っても馴染めないのかそれとも馴染もうとしないのか私は既にわからなくなっていた。

ただ徹底的な効率化が計られれば今は健全な場所でも昔の西欧で言う森のような場所になってしまうのかもしれない。
孤立無援、人々は結局この状態を恐れる。徹底的な排除は悲惨な無秩序を生み出してしまいかねない。

ネットという場所がもたらしたのはある種の希望とアンダーグラウンドな秘密のコミュニティ倶楽部だったのが、人々を常に扇動し煽る場所に成ったような気がする。常に何か上の存在に比較され監視されているような不自由さがつきまとっているようだ。

結局何と戦って、何を得たいのか、何の為にといった目的は靄がかかったままで灯りが見えたそれは灯りではなく、ものを焼き尽くす大火なのだった。ずっとそれの繰り返しで日々は過ぎてゆく。