悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

老いて身を知る

年を取ればその年齢にふさわしい自然な人であるように振る舞うのが普通なのだと思う。もちろん基準となる普通はそのときその時の社会情勢や流行、風潮で決まる。例えばオタク趣味は一昔前なら大人がアニメゲームにハマって(漫画はギリギリ許されたが)いれば人権などないかのように扱われた。いくつになっても心は子どものヤバいやつ、今もまだそういった雰囲気は残りつつもほとんど見えなくなったように思う。鬼のブームとかもそうだが大人がアニメゲームにハマっていても一応OKになった。

今流行だから、というのもあるのだろうが少なくとも一昔前ほど風当たりは強くなくなったように見える。

しかし年齢にふさわしい振る舞いということではアニメゲームにハマっていてよい、というわけでもないのだ。それだけではダメで、例えば30代~40代なら育児をしながらオタク趣味を嗜むなどやはりその年齢にふさわしい振る舞いをしていることが前提条件な気がする。
逆に20代までならどんな振る舞いも許されるような気がする。いくら変な服を着て目立つ格好をしてどんなに個性的だろうとなぜだか周りの目が許されている気がする。だが30、40、50と年を経っていく中でどこかでその個性的を外さなけばならない時がくる。30歳、年甲斐もない・・・と周りの目は厳しい。

出る杭は打たれるというだけなのだろうか、ならそれでいい。そういったブーイングも自身の強みの糧にできる、個性的である上に批判はつきものなのだから。しかしどうもそんな訳でもない。特殊な業界に身を置く個性業、つまり芸能芸術だとか自分を売っていく商売ならそれは強い。だがそれは選ばれた人たちだけの場所だ。

何もないただの一般の人は指標の年齢の通りに自分を振る舞わせる事しかできない。

年齢だけは重なっていざ自分がどういう状況にいるのか、考えるだけで憂鬱になる。私は世の同じ年齢の人のイメージ像とは大きく崩れていた。この年齢になって手元に何も残っていないのだった。中身は空っぽなのだ。なのに外へ出ればその年齢のイメージ像として振る舞わなければならない、それが苦痛なのだ。そうして自分を取り繕う事はもうできないのだった。

私は私自身の持つ年齢と実際の自分とのイメージが葛藤しているのだと思う。
「この年齢になったらこうするのが当たり前」
「こういう年相応の振る舞いをするのが大人」
今社会全体的にこんな考えとか風潮とかが呪いのように蔓延している。たぶんこの元凶は格差なのだろう、規律を守る事がそうでない相手を非難できる盾になるのだろう。

例に漏れず私もそちら側の思考だ。周りを見渡せばそういう人たちが多くいて、その人たちから標的にならないように振る舞わなければならない。1人で非難を受け止められるほど私に力はない。たぶん今後私がやりたいと思うことはその非難をされるものなのだと思う。

年甲斐もなく、みっともない。年を考えろ。
言葉はやはり呪いのようで美徳なのだ。

そして周りもまたその連鎖は存在していて、早熟であればあるほど素晴らしいのだ。
だから何もない人は年を取ればとるほど何もなくなる。
身の空っぽさは年齢によって騙し取り繕っていただけなのだ。


大器晩成とは、たぶん生きるための最後の砦、言葉なのだと強く思う。