悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

有無形像

貴方のために・・・”特別扱い”はどこまでしていいのかな、いや”特別扱い”なんて水臭いこと言うな。そもそも”特別”という言葉や見方がないように変えていきましょう、その為のサステイナブルデベロップメントゴールs・・・?

博物館についてのそもやもと乳加工製品の四方やまを目にした。ふむ・・・?今の時代はこういう考え方がスタンダードなのだろうな、と思い知らされた。
誰かが困っている、賛同者は我々もその通り困っているという、ここに同盟が結成される。
我々の訴えを聞いてくれと聴衆は彼らの悩みを目に耳に入れる。
ここでネットという場所のまこと不思議な性質がある、物事は何層ものレイヤーが重なって複雑に動いているものも多いけど、ネットはそれを画一化する。全ては俯瞰的になる。目の前に出されるのは良くも悪くも0のように映る。例えば物質社会では1とか6とかの実は単純だったりかなり難しい事だったとしても0に見えるからややこしい。

物事にランクをつけるのか?というけどもランキングというよりは層だ。最下層に辿り着くには1層~6層を順に攻略していく必要があるという条件だ。いきなり4層から始めて最下層まで辿り着こうとするにはまだ何か足りない、そういうくらいのものだ。



しかし彼らはその身なりや振る舞いは当然高貴であるからにして、彼らの言うことにはある種の信憑性の高さが見られることは、ある一定の権威に対して反発を強く持つ聴衆たちとの指向とは相反しているように見えるのだが・・・

総ては思惑、だ。それぞれ立場は絶対に違う。その違いが一つの集合体として結束できるのだろうか・・・?世の常々だってそんなことはほぼほぼできてないのだし・・・。しかしそれを可能にしているように見えるのがタタキだ。それらは宇宙人との対外するが如く効力があるように見えるが、実際はまやかしなのだ。

わたしたちの属するそこだけが守られればそれでいい、それは傷ついた人たちの思うところだ。私もその通りだ。しかしそれを傷つけた人たちを見下し自らに下させるように仕向けるのは常ではないと思う、いや彼らは強い。流浪はせずそこに立ち止まったまま決闘をしようとしている。どちらが正しいのか、正しかったのか、新しいスタンダードはどちらか?

全てが変わることがより良い事なのか、わからぬけども、その事を含めてしかと語り合える場があるという状態を作れるのがより良い事の一つであるかもしれないのだ。現状、それとは少なからず遠ざかっているように見える。


やはり我々はまた彷徨い歩くだけだろう、理想郷を目指して・・・。