悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

虚ろの中の住人

日々この不調になってからちょっとしたことでも動揺したり重く考えてしまうのでどちらかといえば日々は(薬の量を増やさないためにも)穏やかにあってほしいと思うものだけど、世の中や世界自体が衝撃的だったり不安を煽るような出来事や物に満ち溢れていて、無縁でありたいと思ったりするのにインターネットがある限り嫌でも目についてしまう。

こうなったのは何も今に限ったことではなく、私の場合は去年から続いているものだけども・・・疫病の大流行によって死というものやそれにつきまとう様々な不安がすぐそこまでじわじわとにじりよって来ているように思ってしまったのだろうか。

当たり前の日常が崩壊する瞬間とは大げさなのかもしれないけど、その今まで安定していたと思っていたものが一気に崩れ去るような恐怖。
そこには純粋な不安だけでなく憎悪や憤りも含まれていてでもその行き場のない感情は自分の中にしまっておくしかないのだが、それが限度を超えれば身体に障ってくる。

私はそういう当たり前とかを一時取っ払っていたようなことがあったので、当たり前とか平穏とか普通の状態じゃない状態(まわりくどいな・・・)に馴れているものだと思ってたけど、それは若い子どもの頃の話でそこには何らかの庇護下にあったというセーフティーゾーンのようなものがあったから今のようにはならなかったのだろうか。


恐怖の原因はなんだろうと考えたときに、本当のところはやっぱりよくわからないのだけど外に出たら突然槍が降ってくるとかそういう突拍子もないこと含めて、何が起きるかわからないという見えない恐ろしさ。
と、このままだと目に見えて悪くなっていくだろうというのがわかっていく見える恐ろしさと2つの相反した得体のしれないものが私の前に同時に現れたのが不調の原因のような気もしてくる。

不調になる前の自分は恐ろしく呑気だったように思う。深夜まで起きていても不安も感じなかったしむしろその時間を楽しんでいたし、明日の夕飯はなんだろうと考えたり、惣菜のクリームコロッケを美味しいと思いご飯を美味しいと思ってたり、中心部に出る時があれば気分転換になっていて、外の店でコーヒーを飲む、というのが強いモチベーションにもなっていた。


今は思うとなんでそんなにそう思えていたのか不思議なくらいで、今はご飯を食べるのも苦痛になるし、店でコーヒーを飲むなんてもってのほかだと思うし、例え飲みたいと思ったとしてもこの不調を越えられるようなモチベーションにはなり得ない、と思った。
冷めなのか覚めのような、「それをしたところで何になるの?何もならないじゃない。」という意識がわき出てくるようで。

全てが無のような何の役にも立たない、何も得ることができないような無の感覚に囚われるようだ。

不調になる前が一種の夢を見ていた状態だったとして今が本来の夢から覚めた状態になったということだとしたら。とりとめのないことだけど・・・。
目覚めた後、本来なら活動ができるはずなのに、見ていた夢が幸せな夢だったのだろうか、けっしてそんなことはないと自分では思うのだけれど・・・。