悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

読書

今週のお題「読書の秋」

本を読むということがなくなった。もちろん買う金がない(金欠)だとか体力がないとかそういう事も含めて。(時間はある)
だが自分は何故本を読んでいたのか、読むのかここにきてわからなくなった。
そもそも読んでいたというほど読書の虫でもないし新書や学術書など専門的なものを読んだことなどほぼない。(授業の教科書として新書を読むことはあった)

一体自分の本を読むという行為へのモチベーションはなんなのだろう。
結局、ただ本が好きとかじゃなくて「こんな難しい本を読んでいる俺」とか「少しマイナーな気味のある本などを読む私」といった顕示欲がある。この本を読んでいる俺SUGEEEEEというわけだ、そしてその本によって得た知識もまた自分の優越感に浸れるのに一役買う。
あるいは何かの二次創作の為の題材元ネタ探し、インスピレーションを得るためといえば聞こえはいいがそういったもののために読む、ということも自分には少なからずあった。

つまり私は元来本を読むことが好きではない、本が好きではないのだ。だから今ちょっとした文庫本のページを一つめくるだけでも身体が緊張して頭が疲れ読むのをやめる。

しかし知識や知恵をつけ、賢人や知識人(ちょうどこのはてなbloggerたちのような)になりたいと、なるために多くの立派な本を読むことは必要不可欠である。
私はそうなりたいと思うはいいものの本を実際ぬ手にとることがないから浅いのだ、浅薄なのだ。裏付けされた知識がない。

私にとって本を読むことは見栄っ張りな見かけ武装であって中身がない。そこに書かれている文字を明確に読み取りまとめ熟考し意見を述べるなどといった書いてある事を理解する”読書”は自分はできていないのだ。

なのに読書が好きそうだと言われる自分の見た目のイメージ、そう言われればそうしてやろうかなどという自分の見栄っ張りが出しゃばる。その自身のイメージに振り回される。


この記事を目にした人たちはきっと正しい読書好きだろうと思う。私はその方々が羨ましい。本を読めることに文字を読むことに喜びと楽しみを抱いているのだから。



どうしようもなく疲れたり体力がなくなると本を読むことがとても億劫になる、というより優先順位が変わった。自分の場合読書の優先順位が低くなったのだろうが、体力がなくなっても疲れても読書だけはできているという人は本当に本が好きなんだろうなという印象を受ける。
同時に自分にはないと思って自分は”頭の良い人”にはやっぱりなれないなとつきつけられる。


本を読むことが好きな方はこれからもずっと続けていって下さい。きっといつか自分の力と知恵になると思います。