悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

根無し

土台がないように感じる。外に出たとき浮き草のようにふわふわしていても内にしっかりとした土台、大地があればまた根をはることができる。だけど内には土台がない。外で萎れてしまえばしおれたまま再生が出来ない。

土がないということは成長もできない。というより成長という概念が生まれない。最初から強い苗はこれからも強くできて、最初からか弱いものはそのまま。そこに段階を踏んで成長していくとか工夫次第でどうにかなっていくとかはあまりなくて、本当に最初から出来なければずっと出来ないまま、という思想に取り憑かれている。いや、そういう場で育ってきた。

楽観的になれないとかいうものでもない。能力の差に気付いてる故のある種の閃きのようなものなのか。出来るようになりたいなら出来なくても出来るようにしなければならない、でないと出来ないままだ。そこにもう少し後になったら出来るようになるかもしれない、はない。

貯えて自分の身につけていくようなベンチタイムはないのだ。今、目に見えている状態で出来たがなければ、ならない。例え後で忘れて出来なくなっていても構わない。自分に見えている状態が大事なのだ。

この事は私にとてつもない疲労をもたらす。
出来ないことは焦燥感に苛まれる。このままずっと出来ないんじゃないかという焦りと不安は厄介である。だがやらないこともまたその事柄を生み出す。どちらを取っても出来ない、は重荷になる。

成長という概念がない家だったように思う。常に一本勝負、真剣を要求されれば神経は次第にすり減っていく。最初から完璧たれと言う癖に言った本人は自分は完璧ではないと弁明し成長という言葉も体よく使った。言葉だけはいつも調子よく言いながらぞれが本心でないことは態度や普段の言動で明らかだった。

自分の中には完璧の概念が行き届いている。今できなかったら一生できないままかもしれないという莫大かつ漠然とした不安と絶望感は今でも非常に厄介極まりない。
たぶんこのお陰で身体のバランスが崩れ調子が悪くなったという一部分に加担していることだろう。
だが、いつかできるようになるかもしれない、は自分にとって根拠のない夢物語で馬鹿の発言に思えてしまうのだ。これは長年に渡って私の積み上げられた思考の癖なのだろうけども悲観的に考えることの格好良さというのに自惚れているのも実はあるのかもしれない。

だが今はこの出来ない思考を休息したいと思った。何にでもその思考がついて回る事に身体が持たない、若干うんざりしている。

できるようになるさ、いつか。

それぐらい身軽に考え取り組んでいきたいと思ってきたのだ。それぐらい自分は今、疲弊しているのだろう、何もかもにも。