悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

どく①

閲覧注意:「毒」と呼ばれる人についてです


なぜ所謂「毒」と呼ばれるような人たちはみな一様に似た行動を取るのか
どうやら毒は伝播するらしい、腐食のように毒はいつの間に蓄積され新たな毒を生み出すのだ。

おそらく自分の所の場合カサンドラとモラハリストの関係に近いと思う。
だが厄介なことに彼らは結束をして自分を攻撃してくる。
こちとらやっと体力や調子が整いつつあるのに
またこの人らのせいで悪くなりそうと思うと腹が立ってくるものだ。だが怒りは確実に神経を蝕むので極力抑えなくてはならない、しかし抑えすぎても蝕むのでなかなか調整が難しい。

今回のエピソードでは厄介な人たちは当てつけがましい行動が酷い、結局自分が湯をはったのが気にくわなかったらしい。

一応促したが、対抗のような意地をはられてはどうしようもない。

朝になってやはり湯を浴びた(片方は何日かぶりにその行動を取った)ということは

やはり私が昨日湯をはったせいで水を浴びることができなかった、というのを言われているようである。
(そしておそらく片方は私が湯をはったことを狙っていた節もある。)

私はやっと自分のために湯をはったのだ。
あなた方は自分が何かしても何もくれなかった、なのにあなた方特に片方、体よく使おうというのはいつもそう、あんたは一体何?

自分の場合で言えば、私は片方にはいい思い出ないしやはり嫌という感情しかない。
なのに散々自分を加害してきたものが一転して今度は被害を受けてきたもののように振る舞うのは、数多の「毒」レポートでも典型的だった。
加えてその要素に「病」も増えた。

毒は同時に猛毒へと育っていくらしい
体感として猛毒とまではいってないとは思うが
着実に毒性は高まっている気はする。

こういうことを「誰かに相談したら」もあまり通用しない。

厄介なのは外に出ると外面を取り繕うので外からは見えないのだ、哀しいことにこの性質は自分にも遺伝している。

じゃあ他の身内は?というのもそもそもそういう付き合いもないしやはり取り繕うので見えないあるいは新興宗教の考え方で解決を迫られるから意味のない。

「私が変われば周りが変わる」という自己啓発な教え、
”偉大な先生の教えと同志と共に努力する”~、”不運は自分に与えられた試練”だのという教えでは結局自分が我慢するしかない、という帰結しかない。

家という単位自体が社会上から孤立している

私には厄介な人たちの考えがよくわからない
相談などしたこともないというのも話を聞いてくれないのでは話をしたところで、私が悪いと言われるのでは、あるいは聞き流されるのでは
話すだけ無意味である。

私を含めみな悲劇のヒーロー、ヒロインで有りたがった、誰が一番悲劇的かという悲劇合戦が今活発になっている。
私はもちろん私が一番悲劇だと思っている。

だが、私を傷めた相手が一番その人自身を悲劇だと思っているようだ。あなたが散々言いようにやってきたのを見ている私はそのことに懐疑的ならざるを得ない。

吐き出さないとまた体調悪くなりそうで書いた。