悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

大きな声

何のために、という目的目標がわからない、定まらなくなってきた。
結局数の多さの前にはひれ伏すしかないしそもそも歓迎されてもない。

誰か賛同してくれないか、とか思ってみてもたぶん自分の感じ方、考え方は通常とはちょっと異なっているかもしれないのだ。

もしかしたら恐れてる私自身こそ一番の間違いであるとか、一番違うということかもしれないのだ。だったら自分は何のためにそれをやりたいのか。
外に出しても違うと否定されるならじゃあ私はいったい何を糧にすればいいのだろうか
違うと言われるいうことは根幹から私の考え方が異端であるということ、つまり元から乖離している。
元を糧にしてきた自分の「何かをしたい」のモチベーションは消え失せるのだ。

元とあまりに違うことはその捉え方が道理でないということでは、もう元というものに含まれる糧はなくなってしまう。

例えば一見クールだが実は中身は熱いというキャラがクールさだけが取り沙汰されればいくら熱い部分を主張したとことで無駄である。
いつしかクールなキャラクターの代表として認識されるのだ。そして原作でもいつの間にか設定部分であった熱い部分も消えている。

こうしたことに動揺を覚えてもどうしようもない。多ければその通り。

こういう現象が昨今多いのだ。誰かたちの声が作品を変える、ともに作品を作っていく・・・一見聞こえがいいが結局それも「誰か」の望む通りだ。

渦巻く願望や欲望がそこにないとは言えないと自分は思っている。
意見や感想はそれらのチャンスを望んでいるかもしれないのだ。
「声のでかい人々」と言うがこれらの人たちの影響力はもともとを覆す力を持っているのはもはや明らかであってじゃあ結局処世術はこうした人たちのいない所に行くことというだけ、という消極的で穏やかなものくらいしかない。

大きく声をあげ数を味方につけたものが勝者となる、かつてなく今は弱肉強食のように思うのだ。

(弱食強肉ではないのかというのも結局弱であっても仲間をつくって強者になるしそして強にならなかった方:弱を食べるという風に関係が逆転する、というか)


こうした事を思いついた