悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

水に浮かぶ枯れ木

享楽的というか刹那的になってきている・・・知的で文化的な生活も何もない。こういう時”凄い人”は美術館や博物館に行ったり図書館に行ったり、あるいは喫茶店で本を読むのだろうか。

そういった姿勢に憧れはあるけど、実は喫茶店(カフェ)などで読書したりするのは苦手である、と思う。これは不調以前からずっとあるものでどうしても人の目や喧騒などが気になって本に集中出来ない・・・のである。店員さんの目も気になるのだ、なんか長居してるやついるぞ、的な。

そんな風に思われていたら・・・といたたまれなくなるのでそういう場所で読書とかは夢の夢である。というか自分にはその資格がもともとない。図書館なら意識もまだ大丈夫なのだけど長時間いるのはなんか気が引ける・・・(生徒という身分で学校の図書館とかだったなら気兼ねないのに)

乗り物に乗ってる時は長時間じゃないなら文字を読む事は出来るけれどずっと眺めるのは酔ってくるので苦手。スマホも小時間ずつ。ずらっとぎっしり列んだ文字列を眺めるのはウッ・・・となってくる。もしかしたらじっと眺める(読む)のが駄目でスマホ等は手を動かすから紛れているのもあるのかもしれない。

 

たぶん外に出ると自意識が強いのだ。特にお店では自分がどう見られるかが怖い。

いっそPCとか本を持っていって、これから作業します読みますオーラと同化すればいいのか・・・。こういうのはもしかしたら土地柄や地域性もあるのかも?東京とか大阪とかの大都会ならば、そういう物事もある程度当たり前で目立ちにくいのかもしれないな・・・。

昨日もだけどこういう事書いてると僻みっぽくて偏見に溢れていて、逆に嫌みみたいに思って書いていてなんか・・・・・・となってくる、こんな事書いて公開してる自分の人間性が古くて封建的な田舎(特定の田舎というわけではなく概念としてのもの)の人間そのものっぽくてイヤだなと思ってくる。

でも実は憧れはあるし、それほど自分という主体性や主導権を自分に持てたらいいな、と思う。

いや、私の場合お店とかだとチラチラ周りを気にしすぎて本の内容も頭に入って来ないだろうな・・・って思、これは別に場所どうこうとかでなくてもともとの記憶容量の出来の問題かもしれないが・・・。

 

学校の図書館においてもそういう下心が全くなかった訳でもなかったかもしれない。

高校生の時はお昼ご飯もカロリーメイト等で済ませた後すぐ図書館に向かっていたな・・・その内昼食を食べることなくお昼はほぼ図書館で過ごしていた。少し特殊な学校だったのでそういう事ができていたのだけども。

読んだ本が身になったかなってないかは微妙なところだ。最後の方は手塚治虫の『火の鳥』を読んで未来編に泣いて(目が潤んで)午後の授業を受けたな・・・。

でも文学全集みたいな本で梶井基次郎の短編が雰囲気良いなと思ったのもこの時期だし『山月記』でストーリー面白いけど漢字多すぎ・・・と思っていた中島敦の『悟浄出世』が面白いと思ったのもこの頃でこの時が私の中で一番知的で文化的だったのだろうな・・・と思う。

もうこの頃のような新鮮さとか気力とか万能感、未来への志向みたいなものがない。

若さって凄い、それだけで原動力になる。実際その時は気付かないけれども。

 

だからセカンドライフとかって年を取ってから新しく何かを始められる人は若いんだなと思う。身体の健康とかだけでなく精神が柔軟なんだろうな・・・。

卑屈すぎる記事が続いてしまった、明日辺りはなんか良いものにしよう・・・と思う。下書きもあるし、ハロウィンだし(?)