悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

音に疲れる

疲弊困憊と思う時がある、といっても私は現在社会的責任というか義務である就労というものに一切付いてなければこれまで付いた事もないのでどの口がそんな言葉をほざけるのかと言ったところだけど。社会に出て理不尽な言い分や酷な肉体労働、十分でない睡眠時間や休息などを経てからそういう言葉を使えと思うだろうけど、実際に自分でも何もしていない(ただ食べて寝るだけ)のに疲弊困憊しているなと思う時がある。精神的な疲労感覚が尖鋭になっているのか何なのか、音の全てが煩いと思う時がある。喋り言葉とか生活の物音、時にはラジオの音楽も全てが煩わしいと思う・・・と思ったら無音なのが却って不安や恐怖に感じたりして詰まる時もある。そういう時は好きな配信者のライブ配信動画を気持ち大音量(スマホ)で落ち着くまで流したりしてやりすごしたりはする。

なんていうか全てがきっかけになるというか鋭利敏感になるというか、何なのだろう会話してる内容が気になるとか、そういう時がある。よく好きな曲を聴けば癒されるとかあるが自分の場合音楽も薬を多めに飲んで落ち着いてたりよっぽど調子の良い時ぐらいじゃないと満足に聴けなかったりする。これも不思議なんだけど音楽って案外緊張しないかと、自分の好きな曲を聴く方が緊張したりする事がある。そういうときは逆にラジオから流れてくる無作為な曲の方がマシだなと思う時もある。私の聴いていた音楽はそんなに感情を刺激するものなのか・・・ダンスミュージックとかはサビ前のためとかはあえて緊張を高める為にやっているだろうから、最近はそういう派手な曲は聴いてないけども。ただどういう訳かどういう時においてもジャズ系の曲はあまり苦にならない(と書くと前フリになりそうだが)のは音があまり聞こえないからだろうか・・・。でも最近のものだったりイヤホンで聴く時には身構えてしまうのであくまでラジオで流れてる場合という事に限るかも。

自分の場合は音楽聴いてリラックスするというより何かをしている時に音楽を聴いてると良いという感じかもしれないと思う、それが目的というより手段のような。学校とか何処かに行く時に移動手段の中で音楽を聴くっていう浸り。今日はこういう気分だとかそういうものだ・・・。今でも不意に脳内でメロディーが鳴ってこの曲が聴きたいと思う時はあるけれど聴くに至るまでが結構面倒くさい。薬を飲んで落ち着けてから・・・みたいな。音楽聞きながら何を考えているんだよって思うんだけどじっと聞き入ってられないみたいな感じがする事がある・・・。でもかといって昔から勉強とか落書きとか読書等のの作業用BGMとかにするのも出来なくて(何故か二次同人だけは読みながらこのBGMを当てたいと思って聴いて浸る事は出来るのに)私の中で音楽とはそもそも音とは何ぞやという・・・。

そう言えばちょっと変な話だが幼少の時に住んでいたトイレの洗浄音が苦手だった、というより轟音のような水の流れる大きな音が苦手だった。音の苦手なトイレとそうでない音のトイレがあって、祖父母の家や商業施設などのは平気だが自分の家のは苦手だったと思う・・・(そう思うとあの家の音が少しうるさすぎたのかとも思う)なので音が嫌で水を流す事が出来なかった。年齢が上がれば全く平気になったが、同じく掃除機の音も苦手だったし年齢上がってからでも洗濯機の脱水時の音等も苦手だった。音に敏感とは言いつつも常に遮断していたい訳でもなく、心地良い音と感じるものはどういったものか未だに自分でもわからないが・・・。

音は音といいつつも、気持ちや念が籠もっているような気がするのは古くは言霊が言葉が霊力を持つというからなんていうような話も聞いたような気がする。字とか本名とかそういうのもそんな類のものなのだろうか。たかが音されど音・・・。

もらそあけて

お題「2024年にやりたいこと」

(だいぶ前に書いてあったのをちょっと上げてみる・・・その時に思っていた事なので今とちょっと違うところもあるかもしれない・・・)

 

色々やらなければならない事は山積みだが強いていえば同人活動がしてみたい。ってこれ大それて書く事なのか謎だ。二次はもちろんだけど一次というかそういうのの創作的活動がしたいというか・・・きちんと清書して形にして誰か(他者)に見せるという事をしないとな・・・という流れ。誰かに見て貰いたいというか見て貰えるものまで持っていけるように清書っていう概念を完成させなければなというか・・・。そういった意識というかなあ・・・。言葉で言えば作品として完成させるという事になるのか、いやこれやっぱり書いていても難しそうな事だ・・・。どのくらいの基準とか何だとかの線引きって難しい、もちろん仕事でも何でもないのだから好きなようにすればいいっていうのが一つの答えだが・・・。

本(同人誌)一冊出すにもイベント出る(?)にも資金は要るもの・・・だし毎日が毎日体調が良い訳ではないので、何かを書く時間も限られてくる・・・社会人しながら活動されてる方々の熱量とバイタリティは凄いなと改めて思います・・・。

何か発信出来る場を・・・というかここのブログもその一つとして使っている訳だが・・・。いやここまで書いておいて何を発信したいのかよくわからなくなってきた・・・。

その他真面目に考えるとしたら何だ・・・。気楽に外に出る事とか公共交通機関に乗るとかそういうのは2023も書いていたような気がするしその前にも書いてた気がするが未だ気楽には出られないし中心街にも何年行ってないんだろう・・・。同じ市内に住んでいながら中心街に殆ど出る事がなく若干浦島太郎状態・・・。家族周りは普通に行ってくるのでどの店がなくなったとか新しく出来たとかの話を聞くだけだが・・・。旅行なんていうのもどうだと思いつつ、住んでる場所も場所なだけに長時間の乗り物に乗るの耐えられないな・・・っていうのが何となくイメージ出来るのと、最近付きまとう「行った所で何がどうなるの」というマイナスオーラが振りほどけない・・・。前までなら京都に行きたいとか寺社仏閣見たいとか何かそこでしかないものが食べたいとか美しい景色が見たいとか欲塗れだった。煩悩があるのは今でも変わりはしないけれど前ほど旅行に意義を見出せなくなってしまったというか「実際にそこに行って何があるんだろう」っていう意味を求めてしまうようになってしまってこれは何だかなあと・・・。旅に意味とか意義なんて見出すような事柄でもないとは思うけど(ノリとかそういう勢いが大事な事もある)・・・最近の自分はそういうよくわからない(そこに自分が入って行ってどうなる・・・?)という思考が入ってくる。

新しい年が明けてやりたい事というお題で書く事じゃなくなってるけど、こういう何になる?っていう思いも払拭させるのも課題かもしれない。もっと「何も考えるな、感じろ」の世界に生きるというか・・・。

とか書いておいて本当にやらなければならないというか社会的な立場として向き合わなければならないものがあるのだけれども、どうも自分はやっぱり惰性というか堕落というか無気力だなあと思います。何かにつけても「いやそれは・・・」とか「でもでもだって」から入ってしまう、だけど一人で為そうとする気力や力もないのでカボチャの馬車待機というか魔法使いのおば様待ち人間だなあ・・・一緒にやって欲しいと思いながらずっと一緒だとなあ・・・ともなるので凄い我が儘というかただ自分に付き添って従ってくれる人が欲しいなんて只のパワハラじゃないかとか・・・。それこそロボットやアンドロイドでいいのでは・・・。

とっても話が反れました・・・。

タイトルは”やりたいこと”の前にという事で遊んでみたけど・・・微妙・・・。

1.9移ろい

暮れに繰り返す年末年始は虚しいと書いていたけどちょっとここで記しておく。癌闘病中というか自然観察にある父方の祖母があまり数値が良くないらしくもう既に余命幾ばくといった辺りにあるらしいと聞いた。3~6ヵ月とだいぶ具体的な数値でつまりは覚悟しておいてくれという宣告、でも本人には知らされていないそうで・・・。抗がん剤治療といった方法は出来なくはないのだがその薬に伴う副作用が祖母には耐えられないらしく(もちろん年齢の事もあり体力的にも)なのでそういった治療類はあえてせず自然の流れに見守る・・・といった形でやってきた。

私も直接聞いた訳ではなくおばやおじからの話を母などから聞いたのだけども・・・。とうとうこの時が来たというか、でもまあ私ぐらいの年齢にもなってまだ祖母が健在しているという事が幸せなほうなのかもしれない。生きとし生けるものは皆いずれ土に・・・とは言うけれど。そんな中で訪問看護のお医者さんたちからもまだ身体が元気に動ける内にどこに行ってもいいと自由にしたいことをしてもいいというお墨付きまで貰っているらしいのだが、祖母もメンタルが不安定でそういうものは無意味だと一切ダメだと拒否してしまっているらしく・・・。

もちろん余命だとかはあくまで目安であって、言われた通りに亡くなるという訳でもなく(母方の祖父はもう今週が山とか言われてたのが4ヵ月ぐらい延びた)最後まで可能性はあるのかもしれないけれど、ただこれからいつ倒れても亡くなる事になってもおかしくないという事は我々も熟知しておかなければならない・・・というこちら側の向かい方の話でもある・・・。ただ何はともあれ身体がまだ動ける内なら祖母には色んな所に行って楽しんで欲しい気もする。

 

そう思っていると自分はいつでも子どものままだなあとか思ってきた、それはもう当たり前なのだけれども。たぶん同じ年を繰り返しているように見えるのは自分がずっと子どもというかそのまんまだからなのだろうな・・・見えてないというか見ないようにしてる所で着実に物事は進んでいる・・・。だからその時その時は一瞬でしかないから同じ物事の繰り返しに見えて実はそれが一度きりという事もある。ただ普段の中にいると漫然として同じだとか思ってしまう・・・。だけど日常は一つ一つの積み重ねでもあるのも然りで、答えだとかそういうのもないものだろうとは思うけれど・・・。

自分の為すべき事はとか意義や意味はとか、こう何となく目まぐるしい世の中で自己を強く保っていられる自信もないし、なんて難しい時代に生きてるのかなあとか変な事思ったりしてしまいます・・・。

1.6転

昨日は凄く久々にちゃんとテレビの前で『千と千尋の神隠し』見てたと思う。ちょっと同時視聴配信もつけてたので解説付きみたいになって見てたけど、アニメーションも凄いんだけどやっぱり背景が綺麗だなとか、湯屋の建物とかインスピレーションの塊だなとか思った。今見かけする和風ファンタジーとかモチーフの細密画の原風景というかそういうのって本当にこの映画の影響が大きいのかなとか。海の上の列車とかああいう心象風景みたいな幻想的な情景も本当に色んなところにあるというか受け継がれているように思う・・・。

見ていて改めてあの湯屋って只の神さま向け温泉宿じゃないんだなあと、八百万の神さまをもてなすからそれはそうなんだろうけどご馳走の用意とか宴会とかしている様子を見てるとそういう感じの場所なんだ(?)っていう。神さまはお祭りが好きだからっていう部分なんだろうかなあ・・・。

絢爛豪華な湯屋と海辺の質素な感じとか空間造りが巧いなとか・・・。どこから湧き出て来るんだろうああいうイメージ・・・。

しかし全編インスピレーションの塊すぎる・・・。

ジブリ作品、昔はラピュタが好きでもののけ姫とか冒険系の方が好きだったけど今はどれが好きかとかあまりないというか、でも千と千尋はテレビ放送があると見てる率高い気がする・・・。そしていつも背景とか情景が凄いとか言ってる気がする。ハウルとかもそんな感じで年を取るとTHE・冒険よりちょっとスロー気味な不思議な感じの方が良くなるのかもしれない・・・。

感想にもなってない感想だなあ・・・。

 

それはそうと結局薬の飲む量が前回分と同じかそれ以上にもなりそうなので今期も記録更新しそうな勢い。新しい漢方がダメという訳ではなく身体自体に既に耐性がついてしまってるんだなと。サンホラの『魔女とラフレンツェ』の歌詞の如く1を奪えば10が欲しくなる10を奪えば100が欲しくなる、中毒とかって正にそういうものだなと身を持って知る。欲望という訳ではないけれど、せざるを得ないという危機信号的なものがそうさせて来るので慣れてしまったら以上を求めるしかない・・・刺激というよりは鎮静のうやむやさとか沈みゆく意識みたいな何か。何も考えないでいたい、無でありたいみたいな時と何かを想像(創造)したいという時とのバランスがあんまり良くない。天秤が片寄ってるというか・・・釣り合いが悪い。

エンジンだけ飛ばしすぎて空転してる感じかもしれない。

何だかなあ薬飲まないと安らぎが来ない。生きた心地しないというのは大袈裟だが、それぐらい不安とか恐怖で押しつぶされそうになる、近くに脅かして来る実物の対象がいるという訳でもないのだが・・・。

日々を無事にすごすって凄く難しい事だなあと感じてくるこの頃。常に不安定な場所にいるような、そんな物事への不安が付きまとう・・・。逃げ出したいけど現状薬飲んで反応を鈍らせるしかないっていう・・・。それでこそ化身したいよな、別の生き物に。ドラゴンとかそういう余計な事考えなくてもいいようなものに・・・。

1.4空は青いけど

一応2024になりました、本年もたぶん引き続きブログにはお世話になると思うのでよろしくお願いします。

 

ちょっと数日前まだ12月の暮れにお見かけしたもので少々・・・。

そうか・・・・・・もうあの時のあれはないんだなあと、あの思い出というか一時の楽しかったあの瞬間はもう忘却の彼方なんだなあと。当時私の属していた場所ももうないのかと思うと、悲しいというか虚しいですね。それがでも起こり得たのだから仕方ないと言えば仕方ないけど、例えば母校が無くなってしまったら履歴書とかに書くときどうなってしまうのだろうな・・・。存在しないんじゃないか、架空なんじゃないかって思われたら虚しい話だけどシビアな問題だ・・・。もののあはれ、というか・・・あの時のあの場所っていう存在自体が儚いものだなと・・・。

逆に言えばあの頃が最高というか最強というかの布陣の下にいたのが幸運(ラッキー)だったのかなとも思う・・・。個人的には全てにおいて満足していたと言うには実は言えないけれどあの時に得た色々な瞬間とか経験や忘れていた人との交流とかそういうのは多く学ばせて頂いたと思っている。(それでも避けてしまった事もあるが)

もう何十年も経ってるので記憶というか思い出も一つ一つ遠くなってきているという話ではあるけど・・・それでも当時自分がいた場所がもう殆ど無くなってしまったというのは空しいなという感はある・・・。

 

日々はやはり地続きだなあと感じる。気がつけば薬の量も既に前期と同じか今期はまた更新しそうなペースまである・・・再来週通院なのだが・・・。抱負とかも今のところ全く思い浮かばないし、だがそれでも自分の周りは環境変化が起こりそうな気もするので、自分の望む部分でなくとも変わらざる得ない状況が起きるかもしれない・・・そろそろ社会との繋がりを・・・とも通院先の先生から言われてるのもあるので・・・。出来るかどうかはわからないのですが、そろそろ作業所に通所するとか行動するという時が来たのかもしれない・・・。

ただ実は未だに公共交通機関に乗れてなくて、仮に乗れたとして薬の量もどれだけ増えてしまうのかというのを考えてしまうと・・・。どこかに通うのもなかなかハードル高い・・・。(通院の際の車は自分は免許がないので母に出して貰っているし働いているので休みの都合もある・・・)

歩いて行ける距離にあるかないかとか本格的に探すのは今月以降からという話なのでまだわからない事だけれども・・・。

こんな感じで始まります・・・。

12.31年末雑感

去年の同時期の記録を見返していると薬の量が今年で倍になってる事に気付く。順当といえばそうだけど2024はさらに倍になるのか・・・。恐ろしいと思いつつも、こればっかりは自分の力でコントロール出来るものでもないから(もちろん自制とか精神力で出来る人はいるだろうけど)どうしても頼ってしまう。一応新しい漢方の効力はあるっぽい、飲んだ後に頭が重たい感じになるのは戻ってきた(という言い方は変だが)気がする。

そして去年も年末年始に当たって新年を迎える事に何が楽しいのかとか書いてあった。これ今も変わらず。逆に言えば私個人があまりに変わり映えのない生活を送っているという事で、社会に出ればその都度人間関係変わったりポジションが変わったりしてそれまでの場所から離れたりするから・・・って言う為に年に一度こういったイベント事はある・・・のかもしれない・・・?とか思ったけれど私個人的な偏見年末年始はもう孫とかそういう子どもを見せ合う会場でしかないようなとか思ったりする。罰当たりだが・・・。後はどういう所に就職してとかあの人のその後を聞く会場みたいな・・・。そういうの、進展がなければ意味ないよなとか思ってくる。後は明るい話がなければそれも何にもないよなあとか・・・。帰るだけでなく友人知人と会うという人もいるだろう・・・と言って、自分にはそういう人いないからなあ・・・ずっとこれまでもそうして年末年始パーティーだとかをすごして来た体験も一度もないしなあ・・・これは私が自分からわりとそういう人間関係を避けて来たり、自分から働きかけて来なかったという自分の責任というか負い目がある。恋愛とかはなしに密な人間関係友情関係に憧れを抱きつつも自らは実際にそうなる事に抵抗があるから遠ざけて退いてしまう・・・。だけど華やかというかそういうものや場所への憧れはある。とかいいつつ実際にそうなると逃げたくなるのでまあ我が儘であるだけなのだが・・・。

いつも通りの日曜日・・・と思いたくも周りの空気はそういうムードなので(ラジオ番組等も編成変わるし)ゲーム実況配信等を見ながら(配信してくれてる方々ありがとう)何とかいつも通りをすごそうかなと思っている所・・・でもこう書いておいて自分でも意識してしまっているんだろうなと思うから厄介だなとお正月というものの空虚感、雰囲気等々。

ご馳走とかそういうのも別に食べたくないし早く眠りたいっていう気のほうが強い。眠りたいっていうのは眠気があるという訳ではなく眠りにつく頃には薬が効いて体調が安定してくるからというだけ。書いていて不肖だなと思ったけれども、そんな思いのせいか普段落ちないものが滑って落ちるという。呪いか?

だけどももう新しい年だとかを祝う力が残ってないんだよ・・・という気にもなる。日々一日一日をどれだけ平穏無事にすごせるか、そんな雰囲気がここ2~3年ずっとあるのでおめでたいという純粋な気持ちはちょっと沈んでる。これからそういう気持ちが戻って来るのかもしれないけれど、そればかりはわからない事だし、やっぱり来年も同じ事思ってそうか更に荒んでるかもしれないな・・・今から2024の12月を考えてどうするんだ・・・って話だが。

年の瀬に、薄ら暗い・・・。

良い歴史とか伝統は守っていかないととか思う反面、いやでも正直もういいよなって思う時もあって結構行ったり来たりあやふや、その時の自分の感情でも決まるかもしれない。

いやかの人間50年という唄のごとく人の世の年数なんて天界での1日ぐらいにしかすぎないとか云う、儚いというか後になってからそんなものなんだなって後悔とかしてくるのだろうか。今が一番くだらないとかそう思ってる時なんだろうかな・・・実年齢に対して遅れてるなあ・・・(そういうのは中学高校で卒業してという)私は精神年齢だけはずっと中高生のままな気がして虚しい。そういう虚しさで最近頭に思い出すのは『ドラえもん』の中でのび太がクリスマスか誕生日プレゼントを貰うのに毎度自分の欲しいものじゃないもの(勉強のドリルとか)を貰うからと、時を超える道具をドラえもんから貰って(どういう経緯だったか覚えてないが)タイムスキップするのだが、ロボ犬みたいなのがプレゼントになっててやっと良いものだやったあと喜ぶのだがそれはのび太の息子ののび助のプレゼントっていう・・・そこで中身は精神年齢小学生のままののび太がぼく大人になってるー!ってこのままどうしようと焦るエピソード。結局、道具はムチャな使い方をしたから壊れてのび太は元の時代に戻れるのだけども。ロボ犬を貰ったって喜ぶ大人のび太(中身は子ども)の像が何か自分とだぶつく。結局私はこの欲しいものが貰えないからと時を超えて大人になってまでプレゼント(欲しいもの/貰えるもの)にすがりつくのび太かもなあっていう漠然的なイメージが最近現れる。ただ空しい・・・。でも何かを得るには人によって時間が違うのかもしれないよなあという言い訳もしたくなる・・・。

 

この記事目にしてくれた人いたらこんな時に暗すぎて申し訳ない・・・けどありがとうございます。

12.30

今年もこのブログ見て下さった方々にありがとうございます。2023前半はまだ沢山更新してたというか何というか後半から頻度減ったというかなのは飽きたとかではないし生活変わったわけでもないけれど、何だか昔々にハマってたものにまさかの再燃というか気を取られてる状態が夏頃からやってきて何だこんだという。そう思って見れば不思議な年だった。自分の調子は良くなっているのかどうかはわからないのだけれども、趣味というかそういうもので昔々に好きだったけど疎遠になっていたものに今頃になってちょっと昔を思い出したような本気気味になっているというワンダー。そしたら本当に一応関連した事(あくまで一応)にも最新のものが現れるという驚き。そして実は2024はこのハマってたものがちょうどイヤー年になるんだよなと思うと本筋での新展開は何かあるだろうか・・・(ちょっと厳しそうだが)でもたぶんこの自分の中の気も一時的なブームみたいな感じで一年は続かないとは思っているが・・・(自分の事なのだがわからない)

それとこのブログとは何が関連してるかって実は何も関連はしていない・・・。

年末の荒んだ気持ちもまだ残っているし何となく風邪気味というかで(外ほとんど出てないのに)体調も芳しくないので、もう早く明けて1月になってくれと言うような気分になってる。でも昨日ちょっとテレビ番組を見てたら戦場カメラマンの渡部さんが出ていてまだ自分がカメラマンとして駆け出しの頃、全然採用されないと思っていた時に自身のカメラの先生から「石の上にも15年」という言葉を貰ったと言っていて、なかなかいい言葉だなとか思った。それで当たり前だけど番組内で日常英語めちゃくちゃ話せるんだなとか思ったら凄いなこの人・・・と改めて思った。

 

ブログを見る事インプットも最近はご無沙汰になってしまっているなとか思うけれどまだちょっとアウトプットだけしたいなみたいなところがある。これは私の個人的なそうしたいってだけの気持ちでしかない・・・。インプットとアウトプットのバランスというかアウトプットといってもしっかり整ったものじゃないけれど、何となく書いて置くだけ書いて置いておきたいみたいな気分が続いている・・・というもの。

そんなズボラになりつつあるブログですが、目にして下さってありがとうございます。

 

たぶんまだ少しだけこういう感じが続くかもしれない。