悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

ワナビー

無知の上で言う。
古のサブカルオタクカルチャーの方にとっての精神の北極生である某先生のblogちょっとだけ見てみた。同じ時期に見た別々のbloggerがちょうど氏の名前を挙げていたからだった。

・・・何というか私の学生時代の某先生を感じた。
「自分探し」って変な言葉と先生は言っていた。今の君たちみたいなやつは「自分探し」って言って「今いる場所」から逃げようとする、そうやって逃げ続けて<自分がない居場所がない>とか言い出す。阿呆か、居場所は自分で造ってしまえばいい、なぜ今いる場所で自分の居場所を造る努力をしないのか?と言うような事を言ってた、と思う。
それはたぶんコミュニケーションの重要性、を説いたことであるように私は思う。

(正直私は先生が苦手だったし考えに当時は特にうーん・・・と思っていたので、極力授業は避けていた(すみません)のだが、結局今になっても先生の言葉が頭に残っていることに気づいた)

先生や氏の言うことは
コミュニケーションができないやつはどこにいっても駄目ってこと。
人と関わるができないと、結局どこにいっても逃げるし何者(自分)にもなれない。
捻れた大人という状態についての提言。
他者とのコミュニティーの間で相対的に自分は作られ確立される。それには属する場所、居場所がなければならない、そしてそこに居続ける為には、自分が何者であるということも捨てなければならない。

私はあなた達と違う、という態度は結局「自分探し」という幻影を繰り返し求めることになる、だが、いつか終わりがやってくるその時-何もない-しか残らない。
・・・みたいな事だろうか

正直に当時、自分はこの学校は自分に本当に合っているのか、ただ仕方なしに、本当は別のことがやりたくて、と思っていた。でも、ここで駄目なら他に行っても駄目だろうと言い聞かせ居続けることにした。

結果、今になって総合的には良い体験を良い期間を過ごさせてもらったと思う。コミュニティーとはこういうものかという発見もあった。(自分で一歩引いてしまってはいたのだが・・・)
暗黒が多かった半生の中で、かなり恵まれたことに思う。(渦中では拗らせていたし問題が全くなかったわけではないが)あの時、関わってくれた人たちは皆とても親切だった。

だがそれとは別に、何者であるかという自分探しは今も続いている。コミュニケーションというのが自分にはどうも、ない。
結局、当時もそうだったが親切な人たちにも自分から関わりに行くということはしなかった。今どうしているのかわからない。
人と関わるとき、楽しくさせないとと思ってしまう、何も話さない、何もないとつまらないと思われるのが怖いのか。(楽しくさせ~とは思っても実際に楽しくする行動取ることはないのだが)
私の意識がそう思う。

根本的に人の中に入っていくのが怖いのだ。自分を見失いそうというのもあるのかもしれない。いやもっと原初的だ、人に攻撃されるのが嫌なのだ。
<あなたは変わったほうがいい、なんか変、それやめたほうがいい・・・>
目を付けられ言われるのが怖い。

だから何者になりたいのも自分探しもまだ自分の中で消えてしまうことはない、というよりわたしの問題はそうした「何者」も「自分探し」もそれに対する「変だ」とか「そういうのやめなよ」と言う声に何か思うことがあるのかもしれない。<何か>はわからないが・・・


今日はこの辺でやめよ、文章書くの疲れる。