悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

ある家庭の話し

今家全体を病的な渦がまとわりついている。先祖の因縁なのか別の因縁なのかとにかく私はある人を憎まざるを得ない。いくら占いに今月悪口はやめましょうとか書かれていてもそうは出来ないくらい存在をアピールしてくるのはソレ自体だろうと思う。

家の父親はロクデナシだと思う。というより典型的な機能不全家族の子どもだった。かつて聞いた話によると祖父は働いたり働かなかったりと不安定で家にいないと思えば外に愛人を作ってその家に入り浸ったりと散々祖母は相当苦労し子どもたちは難儀な子ども時代を過ごしたらしい。それだけ聞いても戦後小説の極貧のような出で立ちだったがさらに追い討ちをかけるように祖母は最大の新興宗教の熱心な信者だったので、稼いだお金はお布施として寄付。その桁3桁だったという。そんなこんなで父親たちにはほとんどお金をかけられなかったそうでバイトが出来るようになって色々買えるようになったという。

こういう感じに所謂父親もいなければ母親もいない家庭の典型例のようで、しかも祖父はなかなかの酒豪でもあった。酒の席では親戚のおじさんたちと騒ぎにもなったらしい。これを聞いてなんてAC家庭だろうと当時思ったりもした、ここまで典型パターンがあるのだろうかと。

そうやってそんなこんな共通の友人の紹介で父母は出会うのだが・・・

昭和の家庭にあった伝統は長男の尊重だった。目に見えて障害(あえてこの言い方にします)がなければどんな人となりでも長男は尊重される、そういうしきたりは家の一族にも根付いていてその証拠に祖父も父親も長男なのだった。
だから彼らには祖母や親類のおばさんたちもいくらか甘いところがあった。(特に父親は子どものときの不遇さから今も優しく扱われている風である)

父親は祖母や祖父の前では良い子・いい人・良い夫を演じているのが祖母の家に行く毎にわかった。まるで妻の尻に敷かれているかのように振る舞った、この傾向は母方の家でもそうだったが特に自分の実家では顕著だった。

さいころよく祖父母たちに父親は優しいでしょうと言われて優しいよと答えるのは私のおべっかなのだったが機嫌悪いとキレだして怒るとかそんなことを言ったところで信じてもらえないのだから、それぐらい外に向ける顔は上手だったのだ。

家の中ではその時の機嫌の良し悪しで怒られるときもあって落ち着かないというか、あまり同じ空間にいるのが心地良いとは思わなかった。
父親はよく喋るタイプでもない、お笑い番組を見てたり機嫌が良ければ独り言のような喋るのだがそれ以外では無言になりがちで子どもの頃から恐怖の対象というか怖いと思うことしかなかったように思う。機嫌が悪いととことん威圧的だったので近寄りがたいのだ。
だいたい思い通りにならないと怒りだすし自分の都合で振り回すのは昔からそうだった。

今もよくわからない行動で家全体を不幸にしているのじゃないかと私は思う。

かれこれ二桁に差し掛かろうとしていまだ就労したことのない私が言えたことでもないのかもしれないが、去年から始まった体調不良は私だけでなく他の家族にも広まりつつある。
なぜなら去年の今頃突然父親は仕事先をやめたのだ。第二の就職として介護業界に勤めて母親にも介護業界を勧めるなどいやにその業界を持ち上げていたが、その誇りあると思われた勤め先を電話一本で唐突に辞めた。
理由はよくわからない。聞こえた話では嫌いな年下の同僚に指示されて腹を立てたとかよくわからないけど。

それが起こってから悠長に次の勤め先が決まる間気まま生活を行っていた。毎日刺身で晩酌、朝から夜までPC、寝る時間も自由にやっていた。しかしすぐ決まると思われた次が思ったより早く決まらず、決まらないまま3ヶ月。
いよいよ決まったと思ったら、朝起きられない夜眠れないと始まり新しい職場を無断欠勤したと思ったら見事適応障害という診断を貰う。
(辞めてかたそれまでほぼ毎日夜遅くまで起きて昼起きる生活を続けてるのではそれは無理ないと思ったものだが)

それから日中はほぼ起きて過ごすことなくの生活が続いている。煙草やたまに腹が減ってバナナを食べにくるまでほとんど起きてこなくなった。休養が必要だからと最初は思っていたがここがポテンシャルの如く、夜の晩酌だけは毎日絶対に欠かさないのが続いている。
薬の関係上酒は飲まないようにと言われたにもお構いなしで毎日の晩酌とつまみの用意だけは活発で自発的だった。処方された薬などロクに飲んでもないしなんなら気が向いたときくらいしか飲んでないようだった。
その癖父親が眠ろうするタイミングにこちらが行動をするとうるさくて眠れないと言われては
どうしようもないばかりか言いようのないイライラだけが溜まってくる。

思えば父親が適応障害と診断されてから私はこれまで生きてきた怒りのやるせなさで体がおかしくなったと思う。恐らくパニック障害のような発作や神経の不調が起きたのはその事も一因のように思う。
私は今まで学生生活を二度ほど休んだことがあってその時に父親によく言われた「なんでお前は弱いんだ」の言葉とそうでなくても言われた「そのままだと社会で生きていけないぞ、どうすんのよ」という言葉。
そんな言葉を使って自己否定されてきた私のアイデンティティーのようなものが父親の適応障害という診断の前に崩れ落ちていくようだった。

適応障害なのだから一番可哀想なのは父親だという証拠が出来てしまったように感じた。
私の今まで言われ残ってきた数々の否定的な言葉は可哀想な父親のちょっとしたやんちゃであってそれを全部許してやってと私に乞うのはやめてくれと思った。
クソ、ムカつくといった言葉は精神疾患の診断の前に吸われ消えていくように無意味であるように思った。そうやって私にはただ行き場のない怒りだけが体内に渦巻いていて漢方服用のお陰で少しは治まっているがこれは未だどうしようもなくくすぶっていて今でもつい何かの拍子に噴出しそうになる。


そうなってから今日の今まで同じように鬱々とした日々が続いている。私はこの一時の酷い状況のときよりかは幾らマシになったと信じたいが今でも唐突な発作の不安に気を張らねばならないのでツラいのは相変わらず変わらない。

父親も相変わらず夕飯どきになると起きて晩酌は続き重々しく威圧的な態度でもって過ごしている。ゆえに夕飯の空気は異常に重たく食べられるどころではないほどである。


こういう事を書いてもきっと自業自得だとかもともと不幸な家庭が不幸になっていくのは自己責任なのだとか私が今まで甘い汁吸ってた分のの罰が当たったのだという思想のもとに晒されるのだろう。それでも私はラクになりたいのだ、ラクであってほしいのだ。

そしてこれは同じような境遇の人に向けての信号のようなものでもある、こういうのもいますというだけの。