悪路、ぬかるみ惑い

なんか無節操なこと備忘録兼ねて

初記事

閲覧注意)言葉使い悪いところあります

自己肯定感の低さはいじめっ子を生むって学説
定着してきてるけどほんとにそうかな~って疑っちゃうわけで
少なくとも自分のこといじめてきた相手はクラスのカースト上位だったし何なら学年単位でも上位だった
というか全く親しくないしクラスメートの一人
彼女が前の席になるまで○○さんって元気で姉御的な人よなってそんなぐらいに自分感覚としては遠い人だったので端からみて自己肯定感低い?って思っても?うーん、ってなっちまう(自己肯定低いとどうせ何やってもできねえとか虚無感とか自己の存在意義に夢中になるわけで正直他人に構ってる時間なくならないか・・・)

そもそも自己肯定感の低さでそいつが勝手に認めた弱者(って言っていいのか)に対して攻撃に繋がるってのも?でだってほんまに自己肯定低いなら他者攻撃するっていうのハードル高すぎだろしかも匿名でやり取りするんじゃなくて面と向かってやるんすよ堂々としすぎだし面の皮厚すぎないの?って思う
いじめ被害によって自己肯定低くなった子は加害者になる傾向も高いっていうのもなあ・・・
いじめられた経験あったらちょっとしたジョークやらもその対象になったりして・・・そういう経験なかった人はそんなこと言われないんじゃないかって思うと格差広がるような・・・
研究者の方々は当事者じゃないのがほとんどなんじゃないかって思ったりして・・・
だからといって加害者側の論述はちょっと・・・だけど書いてる人は実際の被害者だったって言うのも人数の上限あるだろうし兄弟が被害に合ったとか間接的には目の当たったりしちゃってそういうことにまじめに向き合ってくれる優しい人たちなんだろうなとは思います。
それが悪いとか偽善的だーなんてこと思うのは野暮で冷静客観的に判断下せる人がいないと仁義敵討ち!の世界になってしまうし・・・
いじめられたのを思い出して怒りが込み上げるならその人が過去を受け入れられてない乗り越えられていない証拠だと考えられるみたいのも見たけれど、そんな学生時代の苦い思い出みたいに1ページにそっとしまえる人いるのでしょうか、いらっしゃるんでしょうけど・・・
極端な話だけど、遺族が犯人あのヤローとっちめてやるって思うことと一緒だと思う
というか逆に犯人にも何か理由があったのでは?とかあれは偶然の悲劇だった誰も悪くないって思うのはえらく文学的で芸術的だなって思う(物語作品なら大好物です)
あのヤローって思うことすら決別できてないとか自己肯定感の低さによる加害傾向とか呼ばれたらたまったもんじゃない
聖人君子でいろ、と・・・果てしないな・・・それもう人生のテーマじゃないか・・・

上にも言ったけどいじめられた人がなんか攻撃的なこといったら肯定感低いことによる加害傾向の露呈で、そんなんない生活してきた人がそれやってもその評価、重さが違うというか・・・それとも攻撃的な人みんな自己肯定低いことにするのか謎だけど
自己肯定感高い人が攻撃的でないってこともないでしょって話だと自分は思ってて・・・
(ネット誹謗中傷の話で多種多様様々な人が書き込んでたみたいな話を見たことがあってみんな自己肯定低い人たちにするならどれだけの数になるのか)

なんか検索すると自己肯定低いと我が子がいじめっ子に!自己肯定を高めるコツとは?みたいな変なのばっか出てくるので・・・
別にいじめっ子られっ子にさせたくないから肯定高めるとかじゃないと思うのよ・・・ちょっとずれてるんじゃ・・・と思ったりして
(こうやって書いてることも結局加害傾向の~って言えばそうも言えるで、学説が正しいことの証明になってるかもしれませんが)
でもこれイカレ貴族の暇つぶし奴隷ゲームみたいである場所で唐突に始まって勝手にターゲットにされる

それが起きない所もあれば起きる所あるけど
可能性自体はどこでも起き得ることで、そこに自己肯定とかそういうのが介在してくる余地があるのかなあって・・・なんかリーダーがいてリーダーが何か言ったことに賛成する人がいたらどんどん盛り上がっていつの間に成立しちゃったりすることもあるんじゃないかって
取り留めのない話し